水子供養の真言宗成田山国分寺インスタグラム

仏教と女性

仏教と女性

仏教における女性観

 この女性と仏教に関する文章は、女性と水子・水子供養・水子之地蔵等に関し深く考えるきっかけになった思考の一部です。当時と現在の考え方に相違がありますが水子供養について、どうして女性が何十年も経過した後に水子供養をする場合が多いのか等、新たな思考開始のきっかけとしてあえて改定せずそのまま記載します。つたなく考えも浅い若輩の文章ですが、水子供養や女性と水子に学術的に興味がある方はご覧下さい。  私が入学して間もなく、講義で「スッタニパータ」を読むことがあった。まだ、仏教を学び始めたばかりだった私にとって、その内容は難しいもののように感じられたが、そのこととは別に驚いてしまったことがある。プッタのことばである「スッタニパータ」の中に、明らかに女性差別なのではないかと思われる記述がいくつかあるのだ。その表現は生々しく、女性である私の中に強い感情が生まれたのを覚えている。そして、プッタがこのような発言をしたということは、仏教の中に女性差別を黙認している部分があるのではないかという疑問を抱くようになったのである。水子供養をお願いなさる女性の皆様にも疑問に思った方がいらっしゃるのではないだろうか。  その後、疑問に思いながらもそのままにしておいたのだが、フェミニズムの思想と出会うことによって、再びこの疑問が浮かび上がってくるようになった。私がフェミニズムを知ったきっかけは、友人からの影響である。水子供養をお考えなさる皆様にも、フェミニズムについて知っている方が何人かいらっしゃるかもしれない。この友人が何冊かの書物を教えてくれたので、それらの本を読み進めてみたのだ。そして、びっくりしたのは、日頃、自分が思っている事とこれらの書物の中に書かれていた事とは、ほとんど共通していることであった。さらに、仏教における女性観を研究しているフェミニストたちがいることも知り、それらの本を読むと、かつて私が「スッタニパータ」を読んだ時に感じた疑問にも明確に答えていたのである。この時から私は夢中になって仏教を研究するフェミニストたちの本を読むようになり、卒業論文には是非とも仏教における女性観について書きたいと考えるようになった。水子供養をお考えになる皆様にも、是非フェミニズムの観点から少し仏教を見て頂きたいと思う。

女性蔑視

 仏教において女性蔑視と感じられる記述は、「スッタニパータ」以外にも非常に多い。これらの中でも分かり易いものは、「八敬法」や「女人五障」説、「変成男子」説など教学に関わるもの、そして、「ケガレ」つまり「血穢」に関わるものであろう。これらの記述は現代の女性だったら誰でもおかしいと思うような問題だと思う。水子供養をお願いなさる女性の皆様の中にもそう思われた方が多いだろう。単に女性というだけで、出家していようがいまいが、男性よりも一段低い扱いを受けるのである。このような扱いの理由として女性の経血や出産の際の出血が穢れているからというのでは、女性の身体から生まれた男性もみな穢れているのではないだろうか。現代では馬鹿馬鹿しいことではあると思うが、今もなおこのような観念は蔓延しており、馬鹿馬鹿しいなどとは言えないのである。ぜひ、水子供養をお願いなさる皆様にも覚えておいて頂ければと思う。事実、私たちのような年齢の者でさえもいまだに経血に関してマイナスイメージを抱いたり、自分の身体が穢れているように感じてしまうのである。  このような例の他には、「母性」や「セクシュアリティ sexuality」などの問題が挙げられる「母性」や「セクシュアリティ」がなぜ差別表現と関係があるのだろうと思われる水子供養をお願いなされる方もいるだろう。これらの問題はフェミニズムの思想があってから初めて顕在化されるようになったことである。私は「母性」そのものを否定しているわけでは全くない。しかし、この「母性」が何者かに利用される時、問題になることが多い。例えば、日本の戦時中において、新たな兵力を産み育てる母親は必要不可欠な存在とみなされて、国家権力の中に組み込まれていった。同様のことが仏教にも言えるのではないだろうか。では、水子供養をお願いなさる皆様も疑問に思ったであろう、仏教において、女性が賛美される場合にはどういう意図があるのか。  つまり、「母性」が何かに利用されてはいまいかということを注意深くみていかなければならない。女性についての記述は常に男性によって書かれている。その女性の言葉は、所詮、男性作者によって考えられたものであるのだ。  まず、第一章では、ブッタの女性観について考えていく。当時のプッタが考えていた女性観というものは、どのようなものであったのかということを中心として、そのことが後世の弟子達にどのようにして伝わっていたのかということを述べたい。  プッタの考えていた女性観と弟子たちが考えていた女性観は果たして同じだったのか、プッタが本来考えていた事は、弟子たちにきちんと理解されたのであろうか。そして、プッタや弟子たちの思想の背景にある当時のインド社会についても触れることにする。  第二章では、日本における女性の立場を採り上げていく。他の宗教と同じように、仏教はあらゆる地域の文化と融合しながら、その姿を変えていった。日本においても同様に、儒教の思想や神道思想などと結びついて独自の思想を形成していった。このような中で、女性の立場がどのように変化していったのか、そして、仏教の女性観はどのように組み込まれたかを考えてみたいと思う。この章では、仏典のみならず、日本の古典文学にみられる女性観についても触れたい。

女性と「ケガレ」

 第三章では、『血盆経』というあまり触れる機会の少ない経典を採り上げた。インドでは、この経典は存在せず、中国に仏教が渡りそこで儒教とまじわり『血盆経』ができたのである。その後、日本へも伝わり女性信者に広まった。日本において広まった理由として、中国と同じように女性をケガレとする思想が根底にあったからである。なぜ、インドでは成立していない経典が、中国・日本でできたのか。そのあたりから、『血盆経』をみてみたい。同時に、今も伝わる『血盆経』が現在どのようにカを及ぼしているかを考えたい。  この論文では水子供養をお願いなさる女性の皆様にとっては特に問題である、差別という問題に触れなければならない。今まで、私は差別という問題に真正面から向き合ったことはなかった。水子供養をお願いなさる皆様の中にもそのような方がいらっしゃるのではないだろうか。今回、差別に関して調べてみて感じたことは、知れば知るほど複雑な構造であり、解消するのが困難だということだった。その中でもやっかいなものは、被差別者たちの中でもう一つの差別が生じるという例や被差別者である人聞が知らないうちに差別をしているという複合差別の構造である。水子供養をお願いなさる女性の皆様には大変、理不尽な話である。例えば、沖縄の米兵による強姦事件をきっかけに盛り上がった米軍基地反対闘争のなかでも、男性の活動家のなかから「基地問題を女性問題に矮小化するな」という発言をして、女性参加者の怒りを買った。  また、被差別部落の解放運動内部での性差別を問題化することの難しさや、在日韓国・朝鮮人の民族解放運動内部での性差別問題への無理解などにあらわれている。このように性差別問題が二の次に扱われることは非常に多い。それで沖縄の基地問題でも被差別部落の解放運動でも、大きな問題を解決すればもう良いのだろうか。たとえ解決しでもすぐにまた問題は生じるだろう。このようなことと同様なことが仏教にも言えるのではないだ ろうか。宗教である仏教は被差別者ではないし、沖縄の基地問題や解放運動とは性質の違うものではあるのだが、例えば過去において教団内での性差別問題よりも布教の方が優先されるというようなことはなかっただろうか。  このような意味では、解放運動内での性差別と変わらない図式になるのである。現在、仏教が性差別及びその他の差別は存在しないということを主張しているのであるならば、過去の差別的な記述についてはっきりと説明する必要があるだろう。なぜならば仏教が精神的基盤としてのカを失った現代においても、依然として日本文化のセクシュアリティやジェンダーについての考え方に決定的な影響を与え続けているからである。このように仏教が多大な影響力があるということをきちんと自覚する必要があると思う。水子供養をお願いなさる女性の皆様にもこれは、大変重要なことであると思う。  この論文を書くことで、私は自分自身の仏教観というものを捉え直すという作業をすることになるだろう。それによって何が変わり何が変わらないのかをしっかりと見据えてゆきたいと思う。

ブッタの女性観について

第一章 インド仏教における女性の立場 初期仏教における女性  プッタは、当時、インドの社会慣習を批判した。特に、家柄、カースト、職業などの生まれる前から差別を受けるようなことがあってはならない、そのように主張したプッタは、どのような女性観をもっていたのであろうか。スッタニパータは女性差別を記述していたのではないか、と気になった水子供養の女性の皆様もいらっしゃると思うのではないだろうか。また、プッタが持っていた、女性観とその後の弟子達の女性の扱いはどうであったか考えていきたい。  仏教にも、キリスト教にも、信者の守るべきもの、提が規定されている。しかし、キリスト教の場合は、どのような不条理な旋が定められていようと、それは、神からの命令として、それ自体絶対的な根拠をもっ。仏教の場合、戒律を定めた人の言説に委ねられるものとしている。プッタのように、性的欲望がインド社会の慣習としていかに支配的であったかを実感して出家した場合なら分かるが、それを実感として受け止められない人たちの根拠はどこにもとめればよいのであろうか。  最も古い仏教経典として伝えられている『スッタニパータ』(本来ならパーリ語原典の引用によるべきだが中村元氏の訳『プッタのことぱ』とする)にその記述がある。性悪という直接的な表現ではないが、男性を中心として考えて、女性は男性を誘惑して破滅の道へと陥れるものという考え方があった。  女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、えるにしたがって得たものをその度にごとに失う人がいる・・・これは破滅への門である。(『スッタパニータ』 一〇六)  水子供養をお願いなさる女性の皆様にはなんとも衝撃的な一文であろう。これらの例は女性は男性を破滅の道に導くものとして考えられていたことが、仏教教団に、女性差別や女性軽視の意識が根強く残っていたことを物語っている。 プッタの弟子のアーナンダも娘に恋して、プッタのもとへ帰るのを忘れ、愛欲におぼれたため、他の弟子に諌められたというエピソードである。その時、プッタは、性的欲望の否定の根拠として、愛着を持つ対象の身体的ケガレを列挙している。  身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのままに見られることがない。身体は腸に充ち、肝臓の塊・勝脱・心臓・肺臓・腎臓・牌臓あり、鼻汁・粘液・汁・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。またその九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。(『スッタパニータ』 一九四〜一九九)

女性に対する不浄視

 その後、頭の中はからっぽで、脳髄液に満ちていて、愚かなものはこれらの身体を清らかだと感じはじめるとある。身体のケガレは、性のケガレと結びつき、「われは(昔さとりを開こうとした時に、愛執と嫌悪と貧欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。 (『スッタニパータ』八三五)という結論になる。  『わたしは(プッタ)は、それに足ですら触れたくない』という、このような、生々しい描写から、プッタの生と性への基本的否定がみられる。女性を不浄視するのは、バラモン教以来のインドの伝統的女性観である。悟りをひらいたプッタにとってそれまでのバラモン教の伝統的女性観というのは、やはり拭いきれないものがあることが伺える。プッタは、当時の文化がが形成する人為的な生と性を嫌悪しているはずなのに、それがいかにも、生そのもの、性それ自体への嫌悪のように感じられる印象を受けるのだ。つまり、プッタの言葉はプッタの実際の意図を超えて、水子供養をお願いなさる女性の皆様にとって、非常に理不尽である、現実の生と性のケガレ観、不浄視の形成に影響する結果をもたらしたように思える。  また、これらの言葉は、女性への性的な欲望に苦しむ男僧に対する「方便」として語られたとしている。だが、方便とはいえ仏教で、 他者を蔑視する言葉が使われたことは、公正ではない。男性の性的迷いは男性自身の問題であって、私や水子供養をお願いなさる皆様などの、対象者の女性には罪はないはずである。そして、プッタの実際の意図を超えて解釈されていくようになる。それらの表現が、単なる「方便」にとどまらず、水子供養をお願いなさる女性の皆様にも、今日の女性観にも関わってくる、大きな影響力とつながっているのが問題なのである。

当時のインド社会での女性の立場

 ところでプッタの養母をはじめとする多くの女性が、ブッタの拒絶にも関わらず、出家を願い、弟子アーナンダのとりなしでついに願いを成就できた。その彼女たちの出家の動機はどのようなものであったろうか。当時のインド社会は、父権的体制下の男性中心的な社会であった。女性達は、そこに潜む社会システムのなか、差別に曝されていた。特に、女性を取り巻く社会環境は、インドで、夫に死なれると女性の社会的自立は困難を伴うということにも現れている。  そうした女性たちにとっては、出家する事が唯一の救いであったし、傷ついた彼女たちの安息の揚や生活の手段であったのだろうと考えられる。ところが、ブッタは、出家は差別を超えるとしながら、他方女性の出家には差別的態度を示しているという矛盾がある。  初期経典の『中阿合経』に「若し女人この法律中に於て至信に家を捨て家無くして学道するを得ざらぱ、正法当に千年住まるべし。今五百歳を失う。余五百年有り。阿難、当に知るべし。」(『南伝大蔵経』第四巻三八二頁)とある。出家には差別はないといいながらも、女性が出家する段階になって、男性のみの出家なら1000年続くが、女性が入ったら 500年しか続かないという。これに関し、水子供養をお願いなさる女性の皆様にも疑問に思った方も多いのではないだろうか。プッタの、女性に対する態度の冷酷さは何を意味するのであろうか。  また、戒律においても『四分律』によると、比丘に対しては二五〇戒定められていて、比丘尼に対しては三四八戒定められている。序論で述べた『八敬法』は、『八重法』『八尊師法』『八不可超法』ともいい、比丘尼が比丘に対して守るべき法のことで、八つの項目のすべてに男性中心、男性に服従することを述べている。私や水子供養をお願いなさる皆様女性が、不利な立場におかれてしまう『八敬法』では、比丘尼が比丘よりも下に見られていたという差別的なことが 分かる。実際、当時のインド社会の構造ばかりでなく、家庭生活にあっても全ての物事で優位に立っていて、女性を同格に扱うことはなかったのではないだろうか。しかし、水子供養をお願いなさる女性の皆様の中にもすでにお考えになっている方もいると思うが、仏教では平等に扱われることになっており、これらに耐えがたかったのではないかと考えられる。これを実際プッタが制定したかどうかは、説が分かれるところであるが、全く根拠のないところから戒律の差がでてくることはないのではないかと恩われる。戒律の基礎となったものが何らかの形で説かれたのではないかと考えるのが私や水子供養をお願いなさる皆様にとって妥当だと思う。

女性の苦悩

 実際、プッタがこのような考えかたをしなかったとしても、当時の男僧達が自分遠の意見を付け加えて伝えたものが多くあるということは、尼僧の誕生を男僧逮が歓迎していなかったのは確かではないだろうか。  この仏教的表現のいくつかは、当時のインド社会を典型的に現している。これは、男性の悪意ではなく、男性の認識不足と意識の欠落に基づいている。私や水子供養をお願いなさる皆様など、女性への苦悩の共感が仏教では理解されていないということがあげられる。母親、妻、養母遠の悲しみ、不幸が実際は社会的、経済的に恵まれた立場のある男性の実存的な苦悩に基づいてしか理解されていないということを現している。  つまり、プッタのような立場にあるものの精神的苦悩が優先させられて、その苦悩が人間存在の苦悩へと拡大していくことで、それ以外の私や水子供養をお願いなさる皆様、女性などのマイノリティの人々の苦悩は軽視されるということになる。  仏教では女性排除はなくなったが、その分、女性排除することにより顕在化されたはずの問題が見えにくくなってしまったことは無視できない。たとえ人類全体の苦悩を理解し、解決したとしても、それで本当の救いとなることができるのであろうか。  苦悩する私や水子供養をお願いなさる皆様、女性などのマイノリティの問題に耳を貸さないで、人類全体の苦悩を論じているかのように現される問題性がもっと認識されても良いのではと思う。 水子供養をお願いなさる皆様にもよくお考え頂きたい問題である。

大乗仏教について

大乗仏教における女性  新しいものが生じる時というのは、古い体制化の批判や不満からでてくるものである。大乗仏教の場合は、仏教を通して、全ての人の平等と救いを説いたプッタの根本たる精神が、自らの救いのみしか求めない一部の特権的な男性僧侶に対する鋭い批判があったためだと考えられる。  大乗仏教は、自分の救いよりも他人を救うことを重要としているもっとも実践的なものである。大乗仏教の大きな特色として 「空」思想がある。全ての物事は「空」であるから、執着するものはないという無執着を説いている。これは、人間の文化や、社会、能力、その他色々な人間に対する権力システムが実体的なものでなく、幻想の産物にすぎなということをいっている。  しかし、同時に、愚かな人間の営みとして、体制そのままをすべて受け入れていく姿勢があることは否定できない。  その背後には、体制を否定されると困る、当時の支配者層との繋がりが伺われる。大乗仏教は、比較的民衆のもの、みんなのものという意識があるが、成立した当初は、少なくとも社会の上層部の人々、支配者層や、資産家の人々がとても多いといわれている。  民衆に、どんな悲惨で悲しいことが起こっても、それらのことはすべて「空」なのであるから、そのまま、受け入れなさいということを説いていることにもなる。それだけなら、私や水子供養をお願いなさる皆様民衆の立場でなく、支配者にとってとても都合のよい宗教になりさがるだけだが、それを、実践することにより、突破するのが「菩薩道」である。  大乗仏教の経典の多くの主人公は、在家者である。水子供養をお願いなさる皆様の中にご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、『維摩経』の維摩居士、『勝鬘経』の勝鬘夫人などは有名である。善財童子は、さまざまな知識人を訪れて、問答しているが、その中には、一般の漁夫、商人、娼婦が含まれている。  ありのままを受け入れる大乗仏教は、私や水子供養をお願いなさる皆様女性にとって有利である、女性を否定する、女性蔑視 の言葉、他の差別に対する言葉もあまり見られない。そこから、仏教学者は女性差別はなくなったというような意見を言っている。その例として、『般若経』や『維摩経』に見られるの教説が上げられている。『維摩経』には、天女と男性仏弟子との話があり、これは、男性も女性も自由自在な性の転換の様子を描いているものである。  このような自由で、男や女の性があるという話の解釈として、長尾雅人氏は、ここで「近ごろことに男女両性の差別の問題がやかましくて、男女平等ということが言われますけれども、それを示唆するような言い方で、女というあり方も男というあり方も空で平等なのだ」と言っている。

「空」思想の問題点

 又、田上太秀氏は「対立や差別と見られていたものが本来性のうえからは『空なるもの』ということで、対立や差別はないということになる。つまりは世界に存在するものに本来、対立や差別はなく、対立や差別があるように見ているのは人の利害や我見に基づいているにすぎないということになる」と述べている。こういう風に、「性差を空じる」という根拠として、大乗仏教に性差別はないと論じる。しかし、この「性差を空じる」ことによって、何が隠されて、何が語られるのか、そこまで論及している論者はほとんど皆無に等しい。  「性差を空じる」ことで私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性の役割、男性の役割にこだわらない生き方の可能性が関かれてくるだろう。しかし、「性差を肯定する」立場の正当化のための証明に使われるにとどまっている。つまり、「性差は空」なのだから、性役割も空であり、父権体制における性差別であるから、それに対しであるがまま受け入れれば良いという性別役割分担、性差別肯定の教えとなっている。大乗仏教において、空思想に基づく女性性セクシュアリティが肯定されたのは、何を意味するのか。空思想で、性差はいったん否定されるが、その後、救われるのは、男性だけで、私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性はそのままである。  また、この中で、内部に吸収された女性的なものというのはあくまでも、男性中心的なもののなかで認められたものである。男性中心的なもののなかで認められたそれは、その時点で、すなわち男性 中心的意味体系に適応するようになっている。では、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性は、どのような方法で救われるのか。  そこで出てくるのが、仏の帰依によってのみ女性が男性に変身することができる「変成男子」の教説である。これは、女子が変じて男子になるという意味である。私や、水子供養をお願いなさる皆様のような女性には、五障があって仏となることができないから、この世にあって、もしくは、浄土に生まれて男身を得ることで成仏することである。この経説が書かれているのが『法華経』題婆達多品にある

女性の「五障」について

 爾の時に舎利弗、龍女に諮って言はく、『汝久しからずして無上道を得たりと謂へる。是の事信じ難し。所以は何ん、女身は垢識にして是れ法器に非ず、云何んぞ能く無上菩提を得ん。悌道は懸砿なり。無量劫を経て勤苦して行を積み具さに諸度を修 して、然して後に乃ち成ず。又女人の身には猶ほ五障あり、ーには賛天王となることをず、こには帝釈、三には魔王、四には、転輸聖王、五には悌身なり。云何ぞ女人速かに成傍するここを得ん。』と。  爾の時に能女に一つの賓珠あり、債値三千大千世界なり。持って以て偽に上る。偽即ち之を受けたまふ。龍女、智積菩薩・尊者舎利弗に謂って言はく、『我宝珠を献る。世尊の納受、是の事疾しや不や。』  答へて言はく、『甚だ疾し。』  女の言はく『汝が神カを以て我が成傍を観よ。復此れよりも速かならん。』  當時の衆會、皆龍女の忽然の聞に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて賓蓮華に坐して等正売を成じ、三十二相・八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に妙法を演説するを見る。爾の時に裟婆世界の菩薩・聖書聞・天・龍・八部・人と非人と皆遥かに彼の龍女の成傍して、普く時の舎の人天の為に法を説くを見て、心大に歓喜して悉く遥かに敬稽す。無量の衆生法を聞いて解悟し不退縛を得、無量の衆 生道の記を受くることを得たり。無垢世界六反に震動す。裟婆世界の三千の衆生不退の地に住し、三千の衆生菩提心を竣して受記を得たり。智積菩薩及び舎利倒、一切の衆舎黙然として信受す。(大正・ 九巻 三十五下)  これら、『法華経』題婆達多品を題材とした和歌も流行し、今様を集めた『梁塵秘抄』にも「女人五つの障りあり無垢の浄土は疎とけれど蓮華し濁りに開くれば竜女も仏に成にけり」などと私や水子供養をお願いなさる皆様女性にとって不利な考え方である五障は詠まれた。  本来、五障は、党天王・帝釈天・魔王・転輸聖王・仏の五つの存在に到達することが、私や水子供養をお願いなさる皆様女性には困難であるというのが経典に説かれた意味であったが、日本において「五障」は「五つの障り」と訓じられた。そのため本来の意図から離れて私や水子供養をお願いなさる皆様女性に内在する罪や煩悩そして、月経の障りが重ねられ、私や水子供養をお願いなさる女性の皆様にとって不利な考え方である「五障」だけが独自の歩をするようになっていく。

「変成男子説」における女性二重否定

 また、「変成男子願」(女人往生願ともいう)というのがある。阿弥陀仏四八頗のうちの三五願とされている。名号を聞いて本願を信楽し、菩提心を起こす女性は、死んだ後、男身を得て往生することができるようにと、過去世において法蔵菩薩(後に阿見陀仏となる)が願いを立てたということが、『無量寿経』にある。  もしわれ働をえたらむに、十方無量不可思議の諸仏世界に、其れ女人ありて我が名字を聞きて歓喜信楽して、菩提心を授こし女人を厭悪せむに、寿終の後また女像とならば、正覚をとらじ。(大正十二巻二六八・下)  この願で注目すべき点は、女人の悟りに「女人を嫌悪せむ」ということがあることである。第一八願の一般衆生にたいしては、自分の身体を嫌悪することは前提となっていない。女性のみが、身体に対して嫌悪感を持つように求められている。  基本的に三従、五障の女性を救い上げるために大乗仏教で、でてきたものである。男性僧侶のみが悟りを開くという初期仏教では女性の救いは問題にあがることすらなかった。  「変成男子」の教説は私や水子供養をお願いなさる皆様などの女性を救い上げることにある。しかし、女性が「空」によって男性に変じていくことが前提となっている。それは女性性の自己否定を徹底していくことで、女性の救いを説くという二重の構造になっている。「変成男子」は確かに女性の救いとなっていったかもしれないが、女性性の二重否定、女性麗視がそれ以前よりむしろ強カなかたちで女性の自己蔑視に繋がっていったととは考えられないだろうか。ここでの恐ろしさは、自己を否定することで救われるということは、私や水子供養をお願いなさる皆様などの女性が否定することを強制されていることに気が付かせないところにある。  私や水子供養をお願いなさる皆様などの女性の救いを可能にするために考え出された教えが、皮肉にも女性性を一段と否定するような形になってしまったという逆説について、良く考えてみることが必要であると思う。水子供養をお願いなさる女性の皆様にとってもこれはよく考えるべき重要な問題であると思う。

物語の女性観

古典文学に見られる女性観  インドから中国そして日本へと渡った仏教は、中国の儒教思想や日本の土着の思想と結びついていった。そして、女性は男子の成仏や往生の最大の障りであっただけでなく、女性自身が成仏・往生という点で生れながらにしてその条件を欠いていたという日本仏教の女性観が出来上がったのである。しかし、そのような、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性にとって理不尽な女性観が民衆に受入れられた理由は、当時の社会的な背景を上手くとりこんだ日本仏教の巧妙さがうかがえる。  仏教は日本において、仏教経典だけでなく多くの文芸作品や説話集などに様々な形で読み込まれてきた。そして、それらの作品から、いかに仏教の影響力が強かったかがよくわかるのである。  『源氏物語』は平安中期の長編物語で五四帖からなる。作者は紫式部である。十一世紀はじめに成立されたとしていて、帝王四代七〇年余りの人生史を描いている。物語は三部に分けられ、主人公光源氏の愛と栄達を第一部とし、華やかな生活とその破綻を描いて、光源氏とそのまわりの人達をめぐる現世苦にさまよう姿が第二部、光源氏死後の物語で、罪の子蕪を含めた男女の悲劇と彼岸浄土志向を語るのが第三部となっている。 r橋姫J以降は 「宇治十帖」といい、内下古今の詩歌典籍の教養を駆使した、流麗で密度の高い文体による最高傑作とされている。  『源氏物語』のなかには光源氏をめぐる女性が数多く登場するのであるが、その女性たちの多くは自らの意志で出家している。光源氏と朱雀帝に寵愛された臆月夜や朱雀帝の娘であった女三の宮でさえ出家している。これらの女性たちの出家は単なる習慣の一つであったのであろうか。  光源氏は六条院と呼ばれ、自らの邸宅に恋人たちを住まわせていた。彼女たちは一人の男を共有しているのであって占有はできない。  光源氏にとっては楽園のような六条院も、女性たちには地獄ではないにしろ非常に苦しみが多い場所であったと思われる。例えば、光源氏が女三の宮を本妻として迎えた時に、それまで光源氏の一番の強い人であった紫の上はこれまでに味わったことのない苦痛を味わう。女三の宮は身分が高いために他の女性たちのように扱うわけにはゆかない。その為、紫の上は光源氏の帰らぬ夜を枕を濡らし一人過ごさなければならないのである。そんな紫の上が出家を強く願うようになったのは、女三の宮の輿入れからであった。出家してしまえば女として見られることはなくなり、男性との関係で悩む必要もなくなる。ここには一見私や水子供養をお願いなさる女性の皆様にとって理不尽な性差別は存在しないように見える。しかし、紫の上は光源氏の最愛の人であったが為に出家の意志はなかなか叶えられないのだった。彼女は何度となく光源氏に出家の意志を伝えるのであるが、その思いが叶えられたのは病身になっての死に際であった。紫の上と同様に、他の女性たちも苦しみの多い浮世に別れを告げ、早く安息の日々を過ごしたいと思っていたようである。藤壷の宮はこのことをよく理解していた女性で、いち早く出家して光源氏を振り切ろうとしている。いくら光源氏とはいえ、尼姿になった女性と関係を結ぶことはできないからである。現在、私や水子供養をお願いなさる皆様が生きる社会でもこれはほぼ同じであろう。紫の上、藤壷の宮の二人の例から、出家は女としての役割からの解放を意味していたことがわかる。もちろん信心深い女性が出家を望むということは当然あったと恩われるが、勢力争いのコマとして扱われていた貴族の女性にとっては、そのような男女関係から抜け出したいという願望の方がほとんどではなかったのではないか。水子供養をお願いなさる女性の皆様にも、こうした男女関係から抜け出したいとお思いにならないだろうか。

女性の出家について

 一方、男性の出家に関しては『源氏物語』であまり触れてはいないのであるが、光源氏が出家を望んでいたということ、薫が信心深く、そのうちに彼もまた出家をしたいと思っていたことが書かれている。面白いことなのだが、光源氏が紫の上の出家に反対する理由として、自分が出家をすると紫の上が困るから出家しないと言って相手のせいにするのである。しかし、いざ紫の上が死んでしまった後もすぐに出家する訳ではなく、ぐずぐずして一年以上もたってからようやくするのである。光源氏にとっての出家はどうしようもなく浮世が嫌になってというよりも、当時の慣習として出家したようである。  宇治十帖の物語で、匂宮と薫との愛に葛藤した浮舟が入水するが失敗してしまう。その後、浮舟は横川の僧都によって出家をする。  浮舟は匂宮と薫の両方から慕われた愛されたようにみえるが、実は彼らが本当に浮舟を愛していたのかは疑わしい。私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性からすればとても酷いことであるが、薫にとって浮舟は身代わりにすぎないのであり、匂宮にとっても薫が執心するからこそ気になる存在なのである。浮舟は彼らの恋愛ゲームの戦利品になっている。私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性はここでも不利な立場として扱われる。しかし、出家した浮舟は薫が会いに来ても決して会おうとはしない。浮舟にとってはきっぱりと捨てた俗世間の薫や匂宮との恋であったが、薫は浮舟に新しい恋人が出来たのだと誤解する。ここで、今まで薫や匂宮に身分の低い女と思われていた浮舟が、精神的には薫などよりも遥かに上の、安定した境地になるのである。  この薫と浮舟の違いは、当時の男性と女性の出家に対する考え方の違いが反映されているように思う。薫にとって出家はあこがれのものでありながらなかなかできないのは、むろん薫の身分が関係しているのであろうが、浮舟とは違って切実な思いがないからなのである。五障の身である女性にとって、出家をしたとしても決して救われるものではない。このことを知っていながらも私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性というものは、出家を願う他はないという悲しい性を、紫式部は身をもって理解していたのであろう。  もう一つ古典で例を上げるとすれば『日本国現報善悪霊異記』(以下『霊異記』とする)についてである。『霊異記』は平安時代前期の日本最古の仏教説話集となっている。僧景戒が選者であり、弘仁十三年(八二二年)頃成立したといわれ、民間の古伝承、因果応報説話などが集められている。この中には、様々な説話があるがその中でも中巻第一三「愛欲を生じて吉祥天女の像に恋ひ、感応して奇しき表を示しし縁」というのがある。

認められた女性像

 和泉国泉郡血汲滞の山寺に、吉祥天女の婿像有り。聖武天皇の 御世に信濃国の優婆塞、其の山寺に住みき。之の天女の像に勝ちて愛欲を生じ、心に繋けて恋ひ、六時毎に願ひて云ひしく、「天女の如き容好き女を我に賜へ」といひき。優婆塞、夢に天女の像に婚ふと見て、明くる日瞻レバ、彼の像の裙ノ腰に、不浄染み汚れたり。行者視て、漸愧して言さく、「我は似たる女を願ひしに、何ぞ君主クも天女専自ら交りたまふ」とまうす。恥ぢて他人に諮らず。弟子偸に聞く。後其の弟子、師に礼無きが故に、噴めて擯ヒ去らる。擯はれて里に出で、師を誹リテ事を程ス。里人聞きて、往いて虚実を問ひ、並に彼の像を瞻れば、淫精染み穢れたり。優婆塞事を隠すこと得ずして、具に陳べ語りき。諒ニ委る、深く信ずれば、感の応へぬといふこと无きことを。是れ奇異しき事なり。涅槃経に云ふが如し。「多婬の人は、画ける女にも欲を生ず」と者へるは、其れ斯れを調ふなり。 (『新編日本古典文学全集第七巻』小学館頁五九)  という話であるが、最後には深く信仰すると何事も神仏に通じないことはないという、経典引用が入っている。  『霊異記』には、吉祥天女を観音菩薩にかえて、同じような話がある。上巻第三十一「慇に勤めて観音に帰信し、福分を願ひて、以て現に大福徳を得し縁」中巻第三十四「狐の嬢女の、観音の銅像を渡り敬ひ、奇しき表を示して、現報を得し縁」このような一連の話からは共通点がみられる。性を通して男性を救う女性を、観音菩薩や吉祥天女とみなす発想が有力となっていることである。ここで、「性を通して男性を救う女性」というのは女性のセクシュアリティが認められているということではなく、「男性を救う性」のみ女性に求められているということに水子供養をお願いなさる皆様は注意すべきである。  小野小町や和泉式部のような色好みとされている女性たちを神話化して、観音の化身とされる伝承や物語も民衆に広まり、日本各地に言い伝えられている。私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性の、性が不浄であるということは変わらないまま、「男性を救うために」性的献身がひたすら望まれている。  女性のセクシュアリティを受動的なものとして、男性の性的救済を 基本とした関係を意味づけていたこととなるのではないか。私や水子供養をお願いなさる女性の皆様にとって理不尽なことがここでも、起こっている。それらのことが、仏教説話として残され、その後の日本仏教の素地をなしてゆくことになる。

結界について

 古代における仏教の主たる奈良仏教、平安仏教の諸山寺は、結界をつくり立ち入りを固く拒絶するという態度をとった。比叡山にも高野山にも結界があった。結界とは修行などを行う揚として決められた領域を設け、俗世間と切り離すことである。結界地は神聖な場であり、修行を妨げる者の立ち入りを許さない。その立ち入りを許されなかった者として、私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性があげられる。たとえ身分が高い女性であっても、出家した女性であっても、女性であるということだけで、結界の中へ入ることは許されなかった。 「女人禁制」が定着した管景には「三従・五障」という罪深い性という私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性に対する否定的な女性観があることは間違いないだろう。  空海とその母親の高野山での話は有名であるが、そのいわれとして姥石というのが残っている。これは、高野山五十四番の町石のかたわらに捻れた形の石があり、弘法大師の母親が結界を超える事が許されず恨んで足摺りした跡だといわれている。高野山などは、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性が立ち入ることの出来ない「女人禁制」の中心であったから、とりわけ空海の母にそれを仮託させようとしたのではないだろうか。  また、かつて女人禁制であったことを示すものとして、「女人堂」「母公堂」が女人禁制を行っていたところの山麓に建立されていることが多い。女人高野といわれている「慈尊院(和歌山県伊都群九度山町)」は、大師の母親が居住したという伝承をもっている。  これらの女人結界は終戦後、ほとんどの山寺で解かれてきたが、いまだ残るところもある。以下は、その問題が表面化してきたもので、朝日新聞からの抜粋である。  奈良時代から 一千三百年にわたり女人禁制を貫いてきた修験道(しゅげんどう)の聖地、奈良県天川村の大峰山系・山上ケ岳(一千七百十九メートル)で、山頂の大峯山寺を守っている五カ寺が三日までに女性の登山を認める方針を固め、信者らへの説明を始めた。一部の信者からは反発の声が出ているが、 二〇〇〇年から認められる可能性が出てきた。大峰山の女人禁制については戦後、市民団体などから「女性差別だ」との批判が強まり、宗教上の伝統を主張する寺側や信者との論争が続いていた。

女人結界につながったもの

 大峯山寺の関係者によると、役行者(えんのぎょうじゃ)の一千三百年忌にあたる二千年からの女性解禁を目指す。登山シーズンの幕開けを告げる「戸開け式」の五月三日を区切りに女性の入山を認め、山中に点在する約二十カ所の行場(ぎょうば)も開放するという。大峰山の女人禁制をめぐっては、終戦直後、解禁を求めるGHQ(連合国総司令部)に対し、地元住民らが「修道院のようなもの」と主張して譲らなかった経緯がある。最近では 一九八九年九月、大峯山寺本堂(国の重要文化財)の『昭和の大修理』完成の際、女性が法要に参列できず、問題となったほか、九四年十一月に吉野町で聞かれた「日本山岳修学会」で、研究者が 「女性を『けがれ』とみる差別意識からくるもの」と指摘するなど、批判が強まっていた。  女人禁制の区域はかつて、東西約十一キロ、南北約二十四キロに及んだが、観光客への配慮などから次第に縮小され、現在は東西約十キロ、南北約七キロ。登山口の四カ所に『従是(これより)女人結界』と刻まれた石柱が建てられている。[毎日新聞 一九九七年 十月三日]  理由としては、私や水子供養をお願いなさる皆様などの女性が、男性僧侶の仏道修行の最大の障りとなるとみている日本仏教の女性観に基づいたものである。私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性は男性僧侶にとって、地獄の使者ととる態度の中に女人否定の思想の一端をみることができる。それに加えて、五障の障りを内在的に持ち、三従を余儀なくされている。それゆえ、結界して私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性を拒否し続けることが現在に至るまである。  通年で 「女人禁制」を貫いているのは、大蜂山(奈良県吉野郡・現在は山上ガ岳に限定されている)で、修験者の多くが洞川から山上ガ岳へ登るからである。山頂に大峰山寺がある(「日本百名山一下」は山上ガ岳に登るコースにふれてない。古いガイドブックには明記)。また、日本に二つしかない「女人禁制」の山、後山(岡山県英田郡粟倉村)は別名「行者山」と呼ばれている。期間限定では、石鎚山(愛媛県)が七月一日のみ「女人禁制」をしいている。  これ以外にも、「女人禁制」の京都の祇園祭、日本各地の神事には神事に用いる装束の繕いすら宮座に入っている男性が行い、女性の介入を嫌っているところがある。奈良東大寺二月堂の修二会(お水取り)は毎年二月十五日〜三月十五日の約一ヶ月の間、戒壇院と二月堂の堂舎で十一人の練行衆によって行われる観音悔過法要である。最初に戒壇院で行われる別火と呼ばれる行事には、女性は一歩も戒壇院庫裏の建物の中に入ることができない。しかし、二月堂で本行の観音悔過作法が行われると、女性は局と呼ばれる場所では聴聞することができるようになっている。  また、近い話題としては、国技館土俵の「女人禁制」などが数多く見受けられるが、今もって「女人禁制」という日本の閉塞的な関係が山寺と人々の聞に続いていることは言えると思う。大峰山では、信者の問でも意見がそれぞれ異なるようであり、二〇〇〇年から女性解禁を認める方向に動いているそうである。大峰山については今後の山寺の対応について期待したいと思う。  第三章で詳しく述べるが、血のケガレ、産血のケガレなどの一時的な身体観が、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性自身へのケガレとして仏教により滑幅しっていった。さらにそれが、聖なる領域への女性の立ち入りを禁止するような、女人結界、女人禁制などへ繋がっていった。

男性の優越感

 女性自身に成仏の可能性がなく、三世十方の諸仏から成仏・往生を見放された存在であった。このような女性が、現実に古代仏教の修行者の集団である奈良仏教・平安仏教の諸山寺から疎外され、拒絶されたのは当然といえる。(『女人往生の系譜』 笠原一男頁十六)  これは、結界について調べていた時に出てきた資料の一つであるが、このように、私や水子供養をお願いなさる皆様にとって非常に不利なことを言いきってしまう根拠はいったいどこから出てくるのであろうか。確かに奈良・平安仏教の状況から考えれば諸山寺が女性を受け入れる可能性はない。しかし、そのことを何の反省もなく、『当然といえる』と断定してしまう所に著者の思想に、水子供養をお願いなさる皆様のような女性の立場を省みないような、男性中心主義が前提となっていることが伺える。  また、結界については、仏教とそれ以前からある山岳信仰の融合があげられる。湯浅泰雄氏は『講座・日本の思想「宗教修行における心と身体」』のなかで次のように述べている。  この山の仏教が、日本思想史にとって重要な歴史的な意味をもつ理由は、それが仏教以前の神話的世界観、特に山岳信仰と習合することによって、仏教的世界観を底辺の常民(注@)の習俗に結びつける道をひらいた。  この習俗と、仏教の結界が結び付けられて、水子供養をお願いなさる皆様のような女性を災いとする、女性蔑視に大きな影響をもたらしたことが言える。女性を社会的に、ケガレの存在、劣った存在としてとして受入れ易い体制をつくり、近世への女性観へとつながり、民衆の間へと広まることになる。ケガレの存在である、水子供養をお願いなさる皆様のような女性が結界の中へ入ることは、彼ら男性の聖なる場所を汚すだけでなく、修行の妨げにもなると禁じられている。  女人を結界している山のふもとには、山頂の層の俗系の家族の女性たちが「里坊」と呼ばれていた、集落を築いていた。「里坊」は、山頂で修行する僧侶らにとって家そのものであった。女性を排除することにより山の塑性が保たれている聞は、彼らは修行に励み、国家や貴族に奉仕すべき様々な仏事や修法を行ってきた。その間、「里坊」の女性たちは、洗濯や裁縫など、女性の役割とされていた世俗の仕事を引き受け、山頂の僧侶らの宗教生活を支えていたのであるといわれている。自分違の生活の中に女性の姿を見ることもなく、世俗へ降りて男女に往生や成仏の道を伝えることも、その義務感も使命感も少ない諸山寺の僧達は、「女人往生」の論理を必要と考えられなかったのは当然だと思う。  男性のみの集団で社会から一時的に逃避して、修行することは、彼らにとっては都合の良い清浄かもしれない。しかしそれは、男性にとっての神秘修行体験であり、甘えにとどまるにすぎない。修行という名目で、男らしさのジェンダーをつくり、性的役割分業を補完するものでしかないし、男性のみが厳しい修行をしたという女性に対する優越感にしか過ぎないように思われる。「女人禁制」「女人結界」をされる女性とそれを認める男性の問題とするよりも、すべて男性側の問題だと考えるべきだろう。ここに、女性を人聞としてみていない根本がある。そして、その習慣が、「女人禁制」「女人結界」の名の下に続いていることは、日本社会のマイノリティに対する差別思想にも繋がっていく事を表していると思う。  注@常民世間の人々、一般の人々のことを言う。この場合、民俗的立場からの発言であるから、「文化的な観点から民間伝承を保持する生活者」というのがあてはまる。

「血盆経」について

第三章『血盆経』について  日本での最初の女性出家者はわずか十一歳の善信尼であった。なぜそのような非常に若い少女が、初めての出家者に選ばれたのだろうか。恐らく、その背景には女性の月経と出産が不浄であるという観念が深くかかわっているのではないかと思う。つまり、女性出家者には、まだ月経がなく出産する事もない『処女』が求められていたのである。その「少女」がある意味で「女性」でないことによって、はじめて仏教のなかで認められていたということは見逃せないであろう。「女性」が仏教の中でカを得られるのは、「少女」であることであり、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性の、性を否定する場合のみだということが言える。こうした、宗教領域を聖とみなし、不浄なものをその領域から排除していったことは、今日の、私や水子供養をお願いなさる皆様女性にとって非常に不利である、女性蔑視へと繋がっていくことになる。  ケガレの問題は、民俗学、人類学、宗教学全般、社会学など色々な分野からの問題提起がされている。その中でも女性問題に関わってくると、出産のケガレ、血のケガレが主な問題となる。もともと、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性の性は、男性と性交し、妊娠、出産する限りにおいては、崇高なものとされ、このようなケガレ思想というのはなかったようである。出産と深い関わりを持つ、産小屋も生命が誕生することへの畏怖の感動が産小屋を作り出してきたからだと考えるからである。血のケガレと関係する月経小屋も同じような事が言える。しかし、中世の神社神道からケガレ思想が発生し、このために、最初は畏怖の念から出来た産小屋、月経小屋がケガレとしてみられるようになってきたのである。  第二章の結界の部分で述べたように、月経や出産をケガレとする考え方は神道や日本の土着の思想にも存在していた。そして、日本に仏教が入ってきた後に、私や水子供養をお願いなさる皆様女性にとって非常に不利である、女性蔑視の傾向があった仏教と神道の思想が結びついていったことは明らかである。そして、本来、存在しなかったケガレを利用した女性の束縛と蔑視へと向かうのである。その最たるものと言えるのが『血盆経』ではないだろうか。  『血盆経』とは、『仏説大蔵正経血盆経』(以下、『血盆経』) といい、もともとインドから伝来したものではなく、中国で作られたものだといわれている。本体は、わずか四百二十字という小さな経典である(図一、二参照)。中国では、西暦紀元十世紀以降につくられたとみられていて、千葉県我孫子市の正泉寺が発祥の地といわれている。  『血盆』という言葉は、もともと仏教の経典のなかにあるものではなく、中国で造られた造語である。インドではなかったこの言葉がなぜ中国で造られたのであろうか。このことは、当時中国の儒教が大きく影響している事が分かる。それが、インドから伝来した仏教と交じり合い、このような言葉が生まれ出たということが考えられる。又、その言経典は日本にもたらされ『女人血盆経』となった。日本では主に曹洞宗で使われていた経典である。だが、それも近世になると多くの仏教宗派が利用した。それにともなう、和讃も多く読まれ主なものに『血盆経和讃』『血の池地獄和讃』 『石女和讃』などがある。

女性の行き着く先は

 ほかの経典と違い『血盆経』の特色として、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性だけが苦しみ、女性だけが不浄のものとされている点にある。これは、女性の出産時に出てくる産血によって山川が汚されて、その下流の人々がその水を汲んで修行している僧侶に差し上げる。そうするとその汚れているお茶を飲んでしまい修行の妨げになり、ひいては神仏も汚すことになるので、女性は大きな罪をもともと生まれながらにして背負っていることになっている。だから、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性は、地獄に落ちなければならないということになる。そして、落ちていく地獄は血の池地獄ということになっている。  地獄とは、生前の行いによって落ちる地下の牢獄という意味である。仏教では人間の善悪の行為や業によって人聞が輪廻するところを六道にわけている。このような地獄の思想は、インドから中央アジア、中園、朝鮮半島などをへて、日本へと流布していった。このような地獄観は、仏教圏独自のものでなく、世界共通のものであり、 キリスト教文化圏のなかにも多くの天国や地獄図は残されている。ただ、本来インドにおいて、死後私たちの生前の行為を審判するという考え方はなかったようである。しかし、今日における地獄のイメージは、因果応報、勧善懲悪の考え方の延長に地獄というものを考えている。  中国を経て日本に仏教が伝来したはじめの頃には、今のイメージとは違う地獄の世界だったようである。地獄について、おどろおどろしいイメージを持つようなったのは、源信の『往生要集』に書かれた地獄の描写の影響力によるところが大きいのではないかと思える。女性が地獄と結び付けられ考えられるようになったのは、私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性が持つとされる五障が強調するようになったこととされている。  『血盆経』は、ケガレ観を強調し利用して、私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性というものを救うというのが主である。当時の仏教者、布教者が『血盆経』を用い、女性観を民衆に広めていったのは想像にかたくない。特に、僧侶の法話などにより、「女性に対するケガレ」と「女性の母性」という相反する思想がしだいに浸透していったと思われる。  では、なぜそのような経典が女性に信仰され、「女人成仏」「女人救済」の『血盆経』となりえたのだろうか。中野優子氏は次のように解釈している。  『血盆経』が女性の罪である血の織れを除いてくれるとされ、女性の女性の信仰をかちえたからであるが、仏教(教団)側それに「便乗」したかたちで、出産や月経を不浄のものと忌避しておきながら、逆に出産・月経と最も関連する母性だけは礼賛したのである。(『宗教のなかの女性史 「仏教と女性」』頁九五)  月経・出産には不浄と神聖の両方の側面がある。不浄とされるその構造には、聖とケガレが表裏一体となっていて、神聖視されたものが実は、不浄なものであるという関係が指摘できるのである。これは、一方では女性を聖と見て、他方ではケガレとみていく矛盾した方法である。『血盆経』とは、女性の立場からの信仰というよりは、 男性側からの男性優位の「女人救済」ということになる。  また、中野優子氏は次のような事も厳しく批判している。  『血盆経』信仰は結果的に、血の織れの「罪」故に堕地獄を運命づけられた女性の不安感を利用することによって、広まっていったのである。仏教者は女性の不安感をうまく利用しつづけてきたことになる。たとえそれがある宗教者の慈悲心から出たものであったとしても、もはやそれは許されないのである。(『宗教のなかの女性史 「仏教と女性」』頁九六)  それが、従来は外来の思想だという事が分っていても、すっかり土着し、日本化していったのである。現在でも千葉県我孫子市の正泉寺に『血盆経』信仰は続いており、姿を変えながらも受け継がれている。  「旅行なんかに行く時に、生理の日程を変えなくてはいけない時にお札を貰ってそれを飲めば、旅行中そういう状態にならないっていうような教えになったりしています。それから安産のおまじないににもなる。出産の時に『血盆経』の経文を書いた字をお湯と一緒に飲めばいいとか、そういうふうに変わってしまっていますけど、泉正寺の『血盆経』の信仰では庶民の女性たちが血の池地獄に落ちるということを教え込まれています。(』女のフォークロア』宮田登・伊藤比呂美)頁五六」

ケガレと水子供養

 現在では、死んだ後、血の池地獄に落ちていうことは誰も思わない。しかし、人々が『血盆経』信仰によって、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性の身体は、ケガレのものとされてしまうようなことが、今でも脈々と引き継がれていることが伺える。女性のケガレ観を経血、産血の「チカラ」として捉え、畏怖の念からでたものであっても、現在から見れば、日本仏教側の言い逃れとしか受け止める事しか出来ない。  「産む性」であるがために女性に現れる生理現象をケガレとして捉えさせ、それを『血盆経』のように地獄へと結び付けてきた日本の仏教である。そしてその一方で、宗教的な生命尊重の立場を理由として、仏教界では「水子供養」を推進する考え方が根強く存在し、その上、女性に対して寺院でおこなっている水子供養などによって 供養的な儀式を強ているのである。水子供養の意義については、この論題の本題からはずれるのでここでは詳しくは触れない。  日本近代思想に大きな影響を与えた仏教が、女性観に対する教えをもっと考慮しでも良いのではないかと思う。例えば、僧侶が『血盆経』を用い、女性観を発言をする時、その人個人のものとは関係なく、他人に対する影響力というものがいかに大きいかを自覚しなければならない。僧侶というのは、その人が言ってしまったことを他の人が素直に聞きやすい地位にいる。人を「導く」「教化」ということをおこなうような、直接的立場にいることをもっと感じるべきである。これは、大戦中の仏教界の対応にも表れているのではないだろうか。  人権問題が取り上げられるようになった現在、仏教の諸差別問題もまた、見直されるようになったことは、仏教が女性蔑視の思想を考え直したときに大きな、社会的なものとなっていくのだと思う。 (図一)[重民]瓶塔形血盆経  瓶形総高 三〇・七 室町時代 奈良・元興寺 発行所(株)元興寺文化財研究所 (図二)血盆経  版本 七・五×二二・〇 江戸時代 奈良・西大寺 発行所(株)元興寺文化財研究所

研究の考察

結論  仏教と女性ということで感じるまま書いてきたが、自分が述べたいことがなかなか上手く書けなかったように思う。特に、日本仏教の範囲の内容では、大師の女性観についても論じたいと思ったが、余りの資料の少なさと時間的余裕がなかったため、大師の母親について少しだけ触れるのみになってしまった。また、「往生要集」についても第二章で述べるはずだったのだが、これも時間的な余裕がなく残念ながらできなかった。時代を経て、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性と、血のケガレと地獄が結びつくことに「往生要集」がどのような影響をあたえているかをさらに調べてみたいと思う。  しかしながら、この論文を書くことで非常に大事なものを得たと思う。それはこのような問題についての思考方法である。差別という問題を多くの人々に理解してもらうには、多くの具体例を挙げてゆくことはもちろんのこと、同時に差別の構造について明らかにしなければ説得力のないものになってしまう。仏教における性差別及び諸差別については、仏教が権力と結びつくことによって、制度としての差別が宗教においても実施されるようになってしまう。時代が変わっていつのまにか制度がなくなったとしても、遺物のように宗教の中には残ってしまいそれが差別を継続させることにつながるのである。例えば、被差別部落民については寺院における宗門人別帳によって、つい最近まで被差別部落出身かどうかの確認をしていることがあった。このように宗教の教えというものは、時には権力に擦り寄ってゆき自身の安泰をはかる為に捏造されることもあるのである。その教えが果たして本質的なものかどうかをしっかりと見極める必要があるように思う。このような一つの現象をあらゆる角度で見てゆくという方法を、この論文を書くことによって学ぶことができたと思っている。  仏教における差別に関して、仏教はもともと差別の意図のないものなのだから、それを差別と感じる方がおかしいと言われるかもし れない。しかし、私は足を踏まれたならば「痛い」と言うように、差別と感じることは声を出して言わなければならないと思う。さもなければ、それをわからない多くの人達がまた自分を傷つけるからである。私は「言葉狩り」のようなことがしたいわけではなく、ただ単に「痛い」と言っているだけなのである。その「痛い」がわからない人は私に対して「なぜ痛いのか」と尋ねればよいのである。  このような水子供養をお願いなさる皆様とのお互いの意見交換の揚が無くして、どちらかがただ自分の主張をしていたのでは何もならないであろう。この論文を書くことによって、女性の問題というだけでなく、男性の問題も含まれているということが、水子供養をお願いなさる皆様にも分かって頂けたらいいと思う。一人でも多くの人々に仏教における性差別について知って欲しいと思っている。そして、自由に討論し合える場を仏教界が設けるようになったら、仏教自体も、水子供養をお願いなさる皆様や、現代人の心に響くようなものへと変ってゆくかもしれない。私もこれをきっかけにさらなる研究へとつなげてゆきたいと思う。

参考文献

•源 淳子『フェミニズムが問う仏教』三一書房 一九九六年  •源 淳子『解体する仏教』大東出版社 一九九四年  •源 淳子『性差別する仏教』法蔵館 一九九一年  •源 淳子『性差と文化』玄文社 一九九一年  •源 淳子『王権と仏教』三一書房 一九九八年  •源 淳子『仏教と性』三一書房 一九九六年  •山下朋子『日本的セクシュアリティ』法蔵館 一九九一年  •大越愛子『闘争するフェミニズムへ』未来社 一九九六年  •大越愛子『女生と宗教』 岩波書店 一九九七年  •大越愛子『フェミニズム入門』ちくま新書 一九九六年  •中野東禅『中絶・噂厳死・脳死・環境』雄山閣 一九九八年  •波平恵美子『ケガレ』東京堂出版 一九八五年  •渡辺昭宏『釈尊をめぐる女性たち』大法輪関 一九七六年  •田上太秀『仏教と性差別』東書選書 一九九二年  •国際宗教研究所編 野村文子・薄井篤子『女性と教団』 ハーペスト社一九九六年  •奥田暁子『宗教のなかの女性史』青弓社 一九九三年  •岡野治子 現代社会学I 現代社会学編集委員編『セクシュアリティの社会学』  •水田宗子「性的他者とは誰か」岩波書庖 一九九六年  •現代社会学N 現代社会学編集委員編『差別と共生の社会学』  •チョン・ヨンヘ 「アイデンティティを超えて」  •上野千鶴子「複合差別論」岩波書店 一九九六年  •上野千鶴子『発情装置』筑摩書房 一九九八年  •上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社 一九九八年  •宮田 登 『女のフォークロア』 平凡社  一九八六年  •宮田 登『自のフォークロア』 平凡社 一九九四年  •中田祝夫『日本古典文学全集十巻』小学館 一九九五年  •長尾雅人『維摩経を読む』岩波書店 一九八六年  •笠原一男『女人往生の系譜』吉川弘文館 一九七五年  •網野善彦『日本の歴史をよみなをす』筑摩書房 一九九一年    雑誌  •「真言宗智山派宗務庁」発行 『社会問題と真言教学』 一九九三年  •「法蔵館」発行 『季刊仏教』 一九九一年  •「日本女性学年報」発行 『女性学年報 十四』 一九九五年  •「日本女性学年報」発行 『女性学年報 十五』 一九九六年    その他  •「(株)元奥寺文化財研究所」発行『女人往生』 一九九四年

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