水子供養の真言宗成田山国分寺インスタグラム

合掌から始める

合掌から始める

祈りについて

 「合掌する」ということについてですが、その前に私達は普段合掌する機会はあまりないと思います。 お参りだとか、葬儀だとか、そのような場合意外にはあまりないでしょう。 そこで「どのような時に合掌することが多いのか」ということについて、私自身も改めて考えてみますと、大きく分けて二つのことが考えられます。日頃どんな時に手を合わせていますか。  まず、一つめは、自分が窮地に追い込まれてしまった場合です。 人間は例えば生きるか死ぬか極限状態になると、自然と手を合わせたくなることがあります。それからもう一つめは、例えばご先祖の前で、仏壇やお墓の前で合掌することで、これは慣習となっており、自然とされているものです。例外的なケースとして浮気がばれた時の男性が、奥さんにに手を合わせる方がおられるかと思いますが、主には前述の二つのことで、困ったときと、先祖に合掌するということが多いと思われます。  順番に解説していきます。 まずは第一番目の、人間がギリギリのところにきたとき、どうすることもできなくなると、自然と手を合わせたくなってしまう窮地の祈りについて触れます。皆さんは心あたりがありませんか。例えば、私も何回か経験した事がありますが、体が痛くなったときや、精神的にまいってしまって、心身の痛みが取れなくなってくるとやっぱりどこかににすがりたいと思ってしまうと手を合わせるなどの行動をとることにつながってくることがあります。  そのようなことはあまり良くないことだとか、下衆な事だとか、迷信であるだとか思っている方もいるかもしれません。 しかし、人間は苦しいときになるとそれを、何とかしたいだとか、今がある程度良くてもさらにより良くしたいなどの、自然な願望というものが備わっているのです。そこからいろいろな要求などが、自然と湧いて出てくることになります。  もちろん、世の中は自分の思い通りにはいかない場合が多いので現実的にはなかなかそれを満たされないことが往々にしてあると思います。しかし、それが究極に迫ってきて、自分に著しい不利益が生じる可能性が出てくると、それまで努力をしていても、やはりそこでどうしても最終的には手を合わせて祈ってしまうことがあるわけです。それは人間にだけ与えられた仕組みであるような気がします。もしもこれがなかったり、あるいはそういう思考にたどり着かなかったりすると大変なことになってしまう場合があり、あまりにも自分の思うように行かないために、自殺する方や、自殺までは行かなくても普通に生きることに絶望してしまう人とかいろいろいると思います。  しかし、人間はうまく出来ていて手を合わせて拝んでしまうという行動をとります。 そうすることによって精神的なバランスを非常にうまい形で取れるようになっています。 それこそが人間が、非常によくできているところだと思います。 もしそれがないと、精神状態に異常をきたしてしまうことがあります。  このように、人は困ったときにはやはり自然と祈るという行動をとることが多いということになります。 皆さまもそのような経験があるかと思います。 そういうことをするということは、恥ずかしいことであるとか、自分だけがやっているということではなくて、他の人もみんなやっている素朴かつ普通の、なお普遍的な方法です。また「祈り」と言うものが無い宗教というものはこの世にひとつも無いのです。どのような宗教であれ、例えば仏教の法典はもちろんとしても東南アジア等のいろんな小さな宗教を見渡しても必ず「合掌する」ということがあります。  仏教以外にもキリスト教、イスラム経などでも合掌する箇所が多々あります。 その意義としてお願いしたり、反省したり、ということがあると思います。 そのため、やはり宗教というものは「祈り」というものがあり「合掌する」ことでそれが含まれていると私は確信しています。  インドの方では、挨拶があり「ナマステ」といいます。 そのときに、合掌するんことがありますが、手を合わせて「こんにちは」ということは「相手にささげる」と言う意味が含まれているのです。要するに、こちらでは挨拶代わりに合掌するということになってきます。本来、合掌すると言うことは、人間の自然な精神バランスから発している素朴なものであると思われます。そういった意味で、合掌することを伴わない宗教は皆無であり、そのような意味で、それはすごく素朴な意味で大変すばらしいことではないでしょうか。

先祖と親は支え

 普段、仏壇やお墓の前で先祖に手を合わせます。皆さまも行なったことがあると思います。 ためしに手を合わせていただきたいのですが、一分間ぐらい手を合わせてみると、何か感じるものがあると思う人もおられるかもしれません。実際に手を合わせてみると、自然と手が暖かくなってくるという現象が起こります。これは、私たちが生きていると言うことを実感できる瞬間ですが、まず私たちの生命は生きている、もしくは生かされていることを感じることが出来るものです。  私たちの生命と言うものは、端的に言えば父母からいただいているものです。もっとも、究極的につきつめていきますと、仏さまからいただいているんものです。しかし、よく考えてみますと、父母がこの世に存在して初めて、私達がいるのです。父母のありがたみに触れてみます。  まず父がいかに強いものであるかということについて説明します。 これに関して指を例えにして簡単に説明していきます。 まず、親指というものがありますが、これは父親の指だと言われています。 これに対して小指があります。このふたつではどちらが長いかという話になりますが、人によって個人差はあるものの、見ようによっては、親指のほうが長い方もいれば逆に小指が長い方もいてさまざまな方がおられるはずです。水子の供養をお願いなさる方々や皆様の指はどうですか。私自身も、最初はこの二つであれば親指の方が長いほうが一般的だろうと思っていました。ただ、人から聞いた話だと、小指の方が長いという方も実は多くおられるそうです。ただし、正確に測った人は少なく憶測で言ってるだけという側面もあるため、結局この2本の長さは同じではないかという人もいます。この2本の指はだいたい同じように見えるということです。  ところが「ある部分から測るとこちらの方が長い」という基準ができてしまいました。 これはどういうことかと言うと、子供は親を超えて成長していってもらいたいということの表れだと思います。それでは子供の方が大切なのかというと、必ずしもそうではなく、やっぱり親の方が大切だっていうのは、例えば、片手で茶碗などを持ってみたとします。茶碗を持つと親指がないといかに持ちづらいかというのは想像できるでしょう。それに対し、小指一本ぐらいは仮になくなったとしてもなんとか持つことはできます。  これは、親がいかに大切かという例え話ですが、仏教の中のお経の中に「父母恩重経」というお経があります。 これを読み下すと、「父母の恩を重ねたお経」となります。 どのような話があるかといいますと、父母が無事に私達を産んでくれたおかげで、この世に命を授かることができたとか、それから子供が、例えば小さい赤ん坊の時に床におしっこをしたとします。そこで、子供がかわいそうだからといって、濡れていない所に子供を布団を移動して、自分がぬれている所の上に寝て子供を寝かしつけるとか、それから、子供が旅に行ったときに、帰って来るまでの間ずっと子供の無事に帰って来る顔を見るまで、ずっと心配し続けていることなど、そういったことで親というのは非常にありがたいものだというようなことを、お経の中で述べているのです。  自分は最近はほとんど田舎に帰省することができないので親と会うこと自体が少ないのですが、自分もだいぶ歳を取ってきて、親と同じ立場に立たされると、仮にたいした病気ではなくても親が病院に入院するということになると、いろいろと親のことを考えることになります。その中で、他に適切な例えがないためにどうしても仕事の話を例に出さざるを得ないのです。  自分の親は、経営的なことをやっており、そこで私もお坊さんになる前はそちらで、一緒に経営にあたっていた時期もあるものの、当時は一緒にやりながら例えば親のやり方が悪いなど、いろいろと陰では愚痴を言っていた記憶があります。しかし、いざ今度自分が一人でお寺の運営や方針などをすることになってそういう立場になってしまうと「親のやっていたことは大変苦労が多かったのだ。」などとつくづく感じることがありました。  そのようなことで、両親については、非常にありがたい存在であり、自分がここにいるとしたら、自分はお父さんとお母さんから生まれてきたということになります。それで、次はおじいさんについてです。お母さんにもさらに両親がおられるわけです。私たちは親だけではなくその先祖があって、はじめて私達が生かされてきたということなのです。  そのため、先祖とか親というのは私達の支えになっているのです。 自分の親の名前がわからない人はほとんどいないし、多くの人はおじいさん、おばあさんだと分かると思います。 仮にわからなかったとしても両親に聞けば分かるでしょう。  ところが、これよりさらに上の代までまで遡るとほとんどわからないという人が多いのです。 そのような名前も良くわからない人であっても私たちにとっては非常に重要な存在だといえます。 だいたい7回遡ると、何人になるか計算したことがあります。 2を7乗すると全部でなんと256人になるんですね。ここから分かることは、たった7代だけでも256人の方が先祖としていらっしゃるということです。この中のたった一人でもかけてしまうと私はこの世にいないことになります。さらに上の代まで行けばなおさら多いことが分かるでしょう。そういうことで、先祖というのはいかに私達にとって大切であり、ありがたいものであるかということが理解できるかと思います。  しかも、親は代償はあっても見返りを求めて私達にいろいろやってくれているわけでは決してありません。 なんの見返りも求めずに、私達を一生懸命養育してくれたということになります。 このことからも、親はありがたい存在だということが理解できるでしょう。

お経を生活に生かす

 まず、私たちと先祖の関係を植木にたとえます。 植木や花をうまく育てるためには水や肥料を与えたりしなければなりません。そうしないと花が咲かないし実もなりません。また、幹がしっかりしていないとうまく育つこともないでしょう。ですから、私たちの生活のなかで先祖に対して供養するとか、感謝するという気持ちがあってはじめて、自分にご利益があってほしいという気持ちを求めるべきで、それなくして自分の生活と幸せは成立しません。そういうことをすることで、自分が良くなっていくことになります。自分が花であるならば先祖は幹であるといえるでしょう。だから、日々の生活のなかで先祖を大切にしていくべきなのです。  そこで先程も述べたように、親は子供を養育するために何か財産を求めたり期待しているわけでは決してなく、自然とそうした行動をとり生活しているものです。これと同じように、私達も同じように日々の生活のなかで先祖に対して自然と供養していかなければなりません、むしろ何も考えずに出てくる行為であるべきです。そのようなことで、先祖は有難いということと、それに基づいて、先祖を供養してゆくべきだということになります。  またそういうことをとおして毎日家の方で勤行をする、仮にそういうことはなくても、たとえば、家族全員でお寺にお参りに行くことを続けると、それにともない子供も毎日見ていくとおのずと生活のなかでお参りの習慣ができるのです。すると、感謝する気持ちが、自然に出てくることがおおいにあります。そうすると子供がうまく育っていかないとかで思い悩むことなどが、自然になくなっていくようなことにもなります。そうした意味で私達は先祖に手を合わせることが大切なのではないでしょうか。皆さまも日常生活に取り入れると良いと思います。  そのような理由で生活のなかでのお勤めを薦めるのですが、お勤めについての中身に入っていきます。お勤めについて具体的に見ていく前に、お経をお唱えしていくしていただく方法を今からすこし簡単に説明していきたいと思います。お経をお唱えするだけでもいかに有難いか、あるいは功徳があるかということについても解説します。 よく言われることですが、 ⋅ お経をお唱えする  ⋅ お経を理解する  ⋅ お経を体現する  ことです。それらを、理解しその上で、一番良い方法は、お経を読んで、理解して、実際に毎日の生活の中に生かしていただくのが最良です。けれども実際は、口でお経を唱えるだけでも大変なご利益があるということをいっています。  戻りますが、口でお経をお唱えすること。 もう一つの写経をすること。 これは、お坊さんであれば必ず実践しています。 実際に毎日の生活の中でお経をお唱えすることが望ましいでしょう。 「読誦」とよばれるもので、自分の口でお経を唱えるだけでも、非常にご利益があります。  もう一つは写経があり、それもあわせて行うとなお効果的です。 こちらの写経は内容を生かして、生活の中に取り入れることがよいと思います。 お唱えすることだけを実行しても、非常に大きなご利益があります。  ここからは少し難しくなりますが「般若心経」というお経にも触れます。 般若心経に関しては様々な解説書があります。 皆さんはいろいろと宗派が違うと思いますが、私達の宗派は真言宗です。  その真言宗を開かれた方が有名な空海、弘法大師です。 これは私達の宗派を開かれた大変に有難い方です。深く理解されている方はご存知かもしれませんが、よく、四国に八十八箇所霊場がありますが弘法大師が修行したときに遍歴した場所は後に札所として番号をつけられて、それが現在まで残って多くの人々の信仰を集めています。  弘法大師が「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」という般若心経の解説を書いています。 これは般若心経を解説してるものですが、主に般若心経の秘密を説くことをしています。 その中で次のようなことを書いています。 わかりやすく説明すると、私達が、生きとし生けるものの苦しみを抜いて、精神的な安らぎを与えることが出来ます。 これは相手の苦しみを抜いて相手を楽にさせることのみならず、自分の苦しみも抜いて自分が楽になるということも含みます。  要するに、仮にこちらの方が意味がわからなくて口でお唱えするだけでも、相手の苦を抜いて、また、私達の苦しみをも抜いて、それを通じて楽をあたえ、その結果精神的な安らぎを与えてるのです。これらの原理を理解した上でそれを日常生活に取り入れると、どのようなことが起きるか、これらを学び修めれば最終的には悟りを開くことができるのです。この中に「道を得る」を意味する言葉がでてきますが、それは悟り開くことができるということです。そして、そのためには、まずはとにかく意味は分からなくても、毎日お唱えすることにより大変大きな意義があることを弘法大師が「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」で述べていました。  具体的に、どのようにお唱えするのかについて、細かいところまで説明します。 手元にお経本がある方はごらんいただきたいと思います。 初めて見ると面食らうこともあるでしょう。 見ていただきますと、まずは内容の構成がどうなっているのか、から入っていきます。 タイトルが黒い太い文字で書いてあるところがあると思いますが、冒頭部分に懺悔文というものがあり、それに続いて三帰、それから十善戒があり、それから発菩提心真言、三昧耶戒(さんまやかい)真言、開経文、仏説摩訶般若波羅蜜多心経、それからお不動さまの光明のご真言、それからご宝号と続き、普回向と続きます。これらのお経をずっと読んでいただく、という形になります。

お経の読み方と鐘の叩き方

 お経の読み方で、どこで息継ぎをするのかという質問がよくあります。 お経を読んでいて皆さまも迷ったことがあるかと思います。 まず、お経の中で短いところはそのまま続けて読んでください。 そして、丸がついているところで適当だと思えばそこで息継ぎをするとよいでしょう。 問題は長いところです。  特にこれらのお経の中の代表的なケースとしては般若心経です。 どこで息継ぎしてよいか迷います。 ここは一見するとただ並んでますが、どこで息を切っても構いません。 自分でここで切れば読みやすいと思うところや、目の追えるところなり自己流で読んでいただいて構いません。ただ、こういったお経をお一人でお唱えするときにはそれでまったく問題はないのですが、大勢でお唱えするときの注意としては、お互いに工夫して別な場所で息継ぎをするとよいでしょう。そうでないと、例えば二人で読んでいるときに二人が同じところで切れてしまうと一瞬間ができてしまい、場がしらけてしまうことにもなります。たまに坊さん同士でもたまに同じ所で空いてしまい一瞬気まずくなることがあるため注意が必要です。  それからお経の一番上の部分にいろんな印がついていますが、それについて少しふれてみます。 最初「頭」という字と「助」という字がついています。 お経を一人で読むときは気にしなくてもよいのですが大勢で読むときには以下の約束事に気をつけたほうがよいでしょう。 「頭」と言う字と「助」と言う字の違いについて、その「頭」とは経頭といって、カラオケで言うところの前奏で合唱で言えばソロのようなものです。  主にその部分は「経頭」という方が一人で最初に読みます。 その後に「助」がつく部分があり、それに続いてそれ以外の人がそこから読み始めます。 そうすると、教頭以外の人は、音程の高さ、速さなどを教頭に合わせて読む必要があります。  このように、「頭」と「助」がずれてるところは説明のとおりですが、中には「発菩提心真言」と言うところなどでこの二つの記号が同じく並んでるところがあります。「おんぼうちしったぼだはだやみ」の部分はどういうやって読むかというと、頭の人が「おんぼうちしったぼだはだやみ」と読みましたら、助の方が二回目から「おんぼうちしったぼだはだやみ」と読むといった形になります。  それから今度は「金一丁」だとか「金二丁」があります。 これは何かと言うと、鐘を叩く場所と回数を示したものです。 例えば、「金二丁」と書いてあるところは、鐘の音を二回鳴らすことになります。 そして、いうまでもなく「金一丁」とは鐘の音を一回鳴らすところであることを意味します。  ただし、ただ叩くだけではだめで、叩き方があります。 この金二丁の場合は、最初の一回目は弱く、二回目は強くということになります。 それから、これは非常に細かい話ですが、皆さんはこの鐘を叩くときにどこを叩いておられますか。 これは特に定まったものがないようですが、鐘の製作者にお聞きしますと、中を叩くのが良いという話です。なぜなら、中を叩いた方がやっぱり音がいいということだからです。なので鐘の中を叩いていただくことが望ましいと思います。  それからもう少し見ていきますと「おんぼうちしった」の發菩提心眞言の金一丁の上に「三反(さんべん)」というものが出てきます。 これが意味するものは「ここは三回読め」ということです。 そのため、他のところはずっと一回だけ読んで、「三反」と書いてあるところだけは三回読みます。 だから、「おんぼうちしったぼだはだやみ」「おんぼうちしったぼだはだやみ」「おんぼうちしったぼだはだやみ」と三回読むことになります。そこから、ずっと先にいきますと「光明真言」という言葉があります。これらは「七反」とあるので七回お唱えするところです。  仏教の世界は三反・七反・二十一反・百八反というものがあり他のお経などでもたびたび出てきます。

数珠(念珠)の役目とお経の読み癖

 法具である数珠(念珠)について説明します。 皆様も一度は目にしたことがあるでしょう。 念珠専門店や仏具店、寺院などで求めることもできると思います。 昔から七宝の数珠(念珠)がよいと言われいますが、金、銀、瑠璃、玻璃、しゃこ、珊瑚、瑪瑙など大変高価なものです。 また、菩提樹の数珠(念珠)とかもあります。素材は様々です。 最近では、古い寺院の柱などを利用して作り、落成記念などの記念品として、縁の深い人に特別に数珠(念珠)を配られたりしたりするそうです。 その寺院と縁がある方には大変ありがたいものです。  数珠(念珠)は仏教の道具です。 修行するときは読み上げ回数が大変なんです。 例えばお不動さまの真言などありますが、これを10000回とか、普通に108回とか読み上げることがたびたびあります。 しかし、いま、毎日一万反とか言っていたら日常生活で仕事になりませんから、皆さんの場合は三反とかそういった負担なく読み上げしやすい回数になっています。その時に、数珠(念珠)を使用します。  例えば七回っていうこの数珠(念珠)で言いますと、真言宗の数珠(念珠)は必ず目印がついているのです。 この数珠(念珠)には、ほかの珠と違う水晶珠が入ってます。そして、ほんの少しですが少し大きさが違います。 これはなにのためにあるかと言いますと、例えばお不動さまの真言を7回唱えたいとします。 その時に、1回目唱えたら、1つその珠を押さえるのですね。 2回目、3回目・・・と行き、ちょうど七回目のとこにこの珠が来るわけです。  こうやって、お不動さまのほうを見てお唱えしていても、ここまでくれば「あ、七回唱え終わったな」と分かるわけです。 ずっといきますと、次二十一回唱えます。二十一回目はどこにあるかというと、こちらに有ります。同じくずっと百八回唱えます。 そうすると、これはどうかというと、ここの中、ずっと周りが百八個あります。 一周目すると百八回目ということになるのです。 では今度は二週目になるとどうなるかといいますと、数珠(念珠)の先飾りのようなものが付いています。 でもこれは飾りではないのです。  ここを一周しますと、その珠を1つ閉じていきます。 また一周しますと、その珠を1つ閉じていくというようになっていきます。 真言や数珠(念珠)の回数を数えるのに珠を爪繰る目的とした法具なのです。 ですから、皆さまの中でお持ちである方は、ぜひ日常のなかでお使いいただきたいのです。  次は、般若心経の具体的な読み方に入って行きたいと思います。 読み方については他のお経と同じで、ひとつの漢字に対してふたつのひらがなの読みがあるところはこのまま読みます。それに対してひらがながひとつしかないところはのばして読みます。例えば「観自在菩薩」はお経として唱えるときは「かんじーざいぼーさー」のようにしてお読みいただければよろしいかと思います。  但し少しだけ例外があります。例外は般若心経の三ページ目の真言です。般若心経の最後の「ぎゃあてい ぎゃあてい はーらーぎゃあてい はらそうぎゃあてい ぼーじーそわか はんにゃしんぎょう」までの部分です。この「ぎゃあてい ぎゃあてい」は二字ですからそのまま読んでいきます。次の「はーらーぎゃあてい」についてはのばして読みます。しかし、次の「はらそうぎゃあてい」についてですが、ここに関してはのばしません。次の二行目の「ぼーじーそわか」は、「ぼーじー」はのばしますが、次の「そわか」はのばしません。あとは「はんにゃしんぎょう」このような形になっています。  それから、お不動さまの真言ですが、成田山以外だと語尾を伸ばしません。 これには、方言と同じように読み癖のようなものがあるようです。 真言宗の普通の、成田山以外のお坊さんはのばさずに、「のーまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん」と読みます。もっとも、私はその癖とは違い、ずっとのばす方でやっています。その場合は次のようにして読みます。「のーまくさんまんだー ばーざらだん せんだー まーかろしゃーだー そわたや うんたらたー かんまん」という風に伸ばして読んでいます。そのようなことで、成田山の独特の読み癖があります。 お好きなほうで読んでいただければよろしいかと思います。

水子供養 地蔵和讃

御詠歌とは誰でも唱えることのできる仏教音楽のひとつで31文字になる和歌、道歌に曲をつけて唱える詠歌と七五調よりなる歌詞に曲をつけて唱える讃歌とをあわせたものです。

当山では亡くなった赤ちゃんへの悲しみと弔いの気持ちを表す下記の水子供養讃歌を唱えているのです。
この水子供養讃歌は意味がわかりやすく作詞されています。
歌詞から深い悲しみと弔いの気持ちが伝わってきます。
水子供養 地蔵和讃
生きるを待たで散る花と はかなく和子は逝きませり
育み愛でしかいもなく 帰らぬ旅に出でませり
父よと仰ぎしまなざしも 今は空しく閉じられぬ
母よと呼びしくちびるも あわれ静かに結ばれぬ
宿世の運命いかなれば この世の縁みじかくて
み情ふかきたらちねに 先だち別れ給うらん
いとし我が子のただひとり 冥路をたどる悲しさよ
誰をかみ親と頼むべき ただ願わくは地蔵尊
慈悲の御手をさしのべて 導き給うぞありがたき
み霊よ永久に安かれと 祈りまつらん一すじに

水子供養に関するお問合せは下記にて承ります。

真言宗成田山国分寺
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       宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉33–2
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