水子供養の真言宗成田山国分寺インスタグラム

仏前勤行式

仏前勤行(ごんぎょう)式

 仏前勤行式とは毎日のお勤め、すなわち仏前で読経することです。 水子供養も仏前で読経することから始まります。 そのお経について解説していきます。

開経偈(かいきょうげ)と三帰三竟(さんききょう)

開経偈
原文 無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)  百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)  我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)  願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)  水子 供養参拝もご一緒に声に出してお唱え仏前勤行式を実践してください。  ありがとうございました。 いま、仏前勤行式でお唱えいただきましたお経は、開経偈かいきょうげと申します。 仏の教えは分かりにくく、難解と思います。 自分自身でも水子供養をお願いなさる方々や皆様にも良くわかるように話したいと思います。 これを、読み下し文にしてみますともうちょっと理解しやすいかと思います。 仏前勤行式での読み下し文 無上甚深微妙の法は、百千万劫(ごう)にも遭い遇うこと難し。 我れ今見聞し受持することを得たり。 願わくは如来の真実義を解せんことを。 となります。 この仏前勤行式でのお経は法要や勤行などお経を読む前に読経されるお経です。 開経文(かいきょうのもん)と呼ぶこともあります。  この仏前勤行式でのお経が表しているのは、これは他にくらべようもないほど深い教えです。 どのくらいの時間を経たとしても出会うことは難しいが、願うならば悟り、理解したいなあ、と申しているのです。 どのくらい長い時間かといいますと、その劫(ごう)とあります。 劫とは、古いインドの教えで、大きな石の上に、天女がころもを着ておりて来て、その衣で石を撫でて、その岩がなでて無くなるまでかかる時間だと言われています。それくらいの時間がかかるけれどめぐり会うのは難しいでしょう。しかし『開経偈(かいきょうげ)』の仏前勤行式でのお経の中にも、34億年の長い間に水子の供養をお願いなさる方々や私達は生まれ変わりながら、今、まさにこの教えを理解しようとしているのですよ、ということを申しているのです。  仏教は哲学なんだという人も多いのですが仏教は哲学ではなく宗教です。 勉強するだけでしたら哲学かもしれません。水子の供養参拝をご希望の方はどのようにお考えでしょうか。仏教で一番大切なことはなんでしょうか。それは仏前勤行式を通して信じることです。 仏さまの深い教えは難しく、理解するのは大変なことなのです。 しかしながら、その教えを信ずることが1番であり、それが仏教は宗教であるということの一義です。  では仏教では何を信ずるのかというと「三宝」なのです。 仏、法、僧の三宝に帰依することを「三帰」と申します。

三帰
弟子某甲盡未来際(でしむこうじんみらいさい)
帰依仏帰依法帰依僧(きえぶつきえほうきえそう)
三竟(さんきょう)
弟子某甲盡未来際(でしむこうじんみらいさい)
帰依仏竟帰依法竟帰依僧竟(きえぶっきょうきえほうきょうきえそうきょう)
この仏前勤行式でのお経は、『三帰三竟』と申します。  弟子某甲でしむこうとは、仏様の弟子であること、すなわち私達、自分自身です。 盡未来際じんみらいさいとは、永遠にということです。 未来という字は、仏教では来世、生まれ変わることをいいますが、悟りを開いて仏になるということを表しています。 三帰では、 それまでは、仏に帰依します。 それまでは、仏が説かれたことを深く信じ帰依します。 それまでは、仏が説かれたことを深く信じ仏前勤行式を実践し生活を送っている僧に帰依します。 ということを申しています。 三竟では、 すでに、仏教を深く信じています。 すでに、仏教を深く信じています。 すでに、仏陀の教えを仏前勤行式を通して実践する出家僧の集いを深く信じています。 ということを申しています。  帰依という言葉はなんなんでしょうか。 こんなにたくさんの帰依という言葉がでてくるととても気になりますね。 帰依とは、すぐれた人ものにより縋すがる、何か尊いものにまごころを差し出す、真の尊いものと生活する、自分のすべてを尊いものにゆだねてしまう、逆らわないでまかせることを帰依と申します。 そして三宝ですが、仏教における三つの宝物である、仏、宝、僧のことを申します。  「仏」とはブッダ、悟りを開いた人の意味で、御釈迦様のことです。 御釈迦様には弟子がいましたが、その中でも、シャーリプトラとアナンが有名です。

真理を学ぶ

 真理を学ぶということで水子供養を希望される方々と仏教の教えを読み解いていきたいと思います。 アナンは弟子の中の正しく悟った方で、まず正しく行う。 それから完全に悟りを開いた方です。  シャーリプトラはお釈迦さまより先に亡くなりました。 世尊はすぐれた調教師といわれています。 人間の迷いを取り除くということで、その上私達人間だけでなく、インドのヒンズー教の神々にも教えを説きました。 そのことから仏のほうが偉いと言われます。 世尊とはお釈迦さまのことですが、弟子がお釈迦さまのことを呼ぶとき色々な呼び方があるのです。  真理を学ぶうえで「仏」という字は人にありません。 たとえば水が水でなくなると、それはもう水ではありません。 仏は人に力づけるから師となるのです。 それゆえ帰依します。  真理を学ぶうえで「法」というのはインドでは「ダルマ」という音になります。 赤いだるま、青いだるま、白いだるまもありますが、達磨といえばもう一人思い浮かびます。 それは、インド中国で教えを説いた達磨です。 ここで言う「ダルマ」というのはこういうことなのです。  真理を学ぶうえで、この世の一切のものは心から出来ています。 時空というものは現象、あるいは心の対象、水子供養をお願いなさる方々や私達が学ぶとともにとらえる様々のことです。 真義はすなわち仏陀の教え、或いは仏陀の悟りの内容です。 これを「ダルマ」「法」と言ったのです。  お釈迦さまがインドに出て80歳でこの世を去るときに「私がいなくても嘆くな、真理を学ぶとともに修行に励みなさい」とおっしゃいました。 お釈迦さまは今はこの世におられませんが、様々な形で教えは残っているので、真理を学ぶとともにこれに帰依することができるのです。  「僧」というのは「サンガ」の意訳です。 仏さまが教えたことを真理を学ぶと同時に実践する人のことです。 僧は日本ではお坊さんのことを言います。 出家しただ指導者のことといったら分かりやすいでしょうか。  五人以上集まると「サンガ」と言います。 「サンガ」は、むかし真理を学ぶ出家修行者に限られていたのです。 ということは独身です。  東南アジアの真理を学ぶ修行者は結婚することが出来ません。 魚も食べることが出来ません。 ならば家庭の中で修行はできないのかというと、そうではないのです。 そのようなことを言っては一般の人は仏になれないということになります。 亡くなった後は人は仏になるといいます。水子供養をされた子供たちもそうでしょう。  しかし真理を学ぶことはそうではないのです。 親鸞上人は家族を持っても修行できることを説きました。家庭の中でも真理を学ぶ修行は出来るのです。 ですからお坊さんが家族を持ってもさしつかえないことになります。 仏道修行の第一歩は帰依三宝であります。  国際的仏教会議というのがあります。 その中でも帰依三宝が唱えられます。 それをパーリ語で3回唱えるそうです。 それが会議の時の慣わしです。  真理を学び仏さまに帰依するときには人々と共に深い海の如く人々を導き、障害を取り除くこと。 そしてさらに三竟を毎日唱え身につける。 そして、真理を学ぶことで身に付いてくることから信心欠如の境地に入っていくと帰依仏教三竟となります。 それは仏陀に帰依した人ということで、真理を学ぶことが自分自身の生きる道となるのです。  帰依が完成すると自分自身が仏になるための衆生と言われる多くの人々のために行こうと思うものです。 一般に仏教というのは3つの側面を持っているといわれます。  1.仏陀が説いた教え  2.仏陀を信仰する教え  3.仏陀になる教え  仏教の大事な教えは真理を学ぶことで仏陀になる教えです。 仏陀が説いた教えは仏陀そのものです。 それに対して仏陀を信仰する、帰依する、三帰することが真理を学ぶことを通して仏陀となる道を開いて行くのです。  迷いから根本へ移動するインドの教えです。 こうした意味では、仏陀の教えが真理を学ぶ修行によって、仏陀になれるのです。 三法への帰依は自分自身が仏陀になる悟りを開こうとする気持ちを発菩提心といいます。  一生懸命仏さまを拝んでいるうちに仏様と一つになる気持ちになります。 水子供養をされる方の中には悩んで苦しんでおられる方もいます。 これを密教では専門用語では、入我我入(にゅうががにゅう)と言う言葉であらわします。  私が仏さまに入る、仏様が私の中に入るという事です。 何か特別なことはしなくても真理を学ぶことで一つになる事なのです。 しかし、それを、一つ連続させるにはなかなか難しいものです。  密教ではお経があります。 そしてその方法があります。 三密瑜伽(さんみつゆが)といいます。 そしてその時に大事なものを身口意しんくいといいます。 身体を身しん、口く、意いの三種類と分けるのです。  身・・・肉体、体が行う行為  口・・・口、呼吸などを行う行為  意・・・意識、こころなどが思う行為  この三つの身体が重なり合って存在しているのです。 これを真理を学ぶことで仏に近づけていくのです。  これを満足といっていたのでは、それはただ表向きだけのことになってしまいます。 自分自身真理を学ぶ努力を続ける事によって、仏に近づくことができるのです。 そして、たまには三帰を唱え自分を反省するです。 それで、仏に沿った教えに近づくことになるのです。 真理を学ぶ普段の生活を仏の教えに近づけることがとても重要であり、それを実践していくことが私達が一歩近づけることになるのです。

懺悔文

『我昔より造る所の諸々の悪業は皆無始の貪瞋癡(とんじんち)に由る心語意より生ずる所なり一切我今懺悔したてまつる』   上記のお経は、懺悔文と申します。  私たちも、仏様の教えをいただき生活しています。 昔から行ってきた身体、言葉、心の悪い行為すべてを仏様の前で悔い改めます、ということを懺悔文でお唱えしたわけです。 それから、まず根本的に三宝に帰依します。 我々仏教とは仏様の教えを三つの宝をあがめ、そして又、ありがたや‥‥と拝むだけでは駄目なのです。 仏教とは、私たち自身が懺悔文を唱えて三宝と一体になることなのです。  それを、先天的に身に付けている人もいます。 何の抵抗もなく、すんなり悟りに入る人もいます。 ですが、大体の人は少しずつ少しずつ深まっていくのです。 懺悔文を唱えて自分の信心を深めていくのです。  サンガ(日本語では僧伽)といいます。 「衆」「和合衆」と漢訳されます。 もとの意味は「集団」「集会」などと言い、古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合、共和政体のことをサンガと呼びました。 そういったものに少しでも関わっていこうとします。  そこで出てくるのが法律です。 様々な法律があり、守りながら生活しています。 子供は親を大切にしなければなりませんし、あるいは友達と仲良くしなければなりません。 食事マナーも生活していく上での約束事です。  仏教の教団人間が多くなればなる程、約束ごとがあり、それを戒律と言います。 懺悔文を唱え教えを聞いてそれを了解することをいう智慧なのです。 ものごとの道理をわきまえ、これらのことを実践することです。  悟りのための智慧です。 仏さまの教えを開いて懺悔文を唱え自分自身が受けとめるのです。 これで最終的には悟りを開くことになります。  仏教の実践方法として三学になります。 これは懺悔文を唱える仏道修行に必要な三つの大切な事柄です。  1.悪を止める戒  2.心の平静を得る定  3.真実を悟る慧  を合わせて三学といいます。 これらはすべて繋がっており、懺悔文を唱え智慧を身に付ける事によって、煩悩に惑わされず、静かにしてしていることができます。 水子供養をお願いなさる方々を含め、私達人間は自分が一番かわいいものです。しかしそればかりでは良くありません。懺悔文を唱えるのです。 三蔵とは、お経を三つに分けたものです。  戒学では実際に仏になられたお経を学びます。 定学では正しい知恵を身につけていき、お経の内容を解釈していきます。 そして、懺悔文を唱えてその中から正しい智慧を身につけていきます。  三蔵法師は「西遊記」という中国の物語に登場します。 この方は、唐の時代の玄奘という実在の人物です。       そして三蔵法師は経律論に秀でた人のことの総称をいいます。 三蔵法師はことごとく学んだお坊さんでした。  それら三つの経律論の内容を深めていきました。 それらの手始めに、まず、戒を説明しました。 これが特殊です。 戒律とありますくらいですから、人間を完成する人間の生活、道徳的な徳の実現をするための修行の規則です。 また、これは仏教では別の意味を持ちます。  戒は梵語です。 懺悔文を唱え規律を守ろう、自分で考える、努力をする、悪を行わないなどがあります。 「これを破ったから、罰が当たる」というのではなくそれらが最終的に自分自身を守ることになるのです。  また、律は他律的な規則になります。 集団の秩序を守ることなどがあり、それらには罰があります。 何らかの制裁があります。  戒は、一般的には個人を守ることです。 律は、集団的組織のなかでの約束ごとです。  仏教の発足当初、お釈迦さまが悟りを開かれて、弟子を集めてサンガが完成し、教団が出来上がりました。 男性のお坊さんのことを比丘(びく)と言います。 女性のお坊さんのことを比丘尼(びくに)と言います。 比丘尼にはいろいろあるので348の戒律が課せられています。  日本も仏教の戒律を守っていましたが明治以降しだいにそれを言わなくなりました。 今でも東南アジア・中国・朝鮮・韓国のお坊さんたちはそれを真面目に守っていますが生活がほとんどがんじがらめになってしまいます。 ただ、それは、外から、他人から言われて守るのでは意味がありません。 それよりも懺悔文を唱え自分自身で守ろうとする心掛けが正しいのです。

戒について

 水子供養を希望される方々とさらに読みすすめていきたいと思います。 たとえば、お釈迦さまの弟子でカルインダソンジャと言う人がいました。 この方は、お釈迦さまが、釈迦国の王子であったときの御学友でありました。 ある日、台風に遭ったときに、釈迦團の若い人達が、倒れた木等や川の氾濫し等、壊れたところを直そうとしていたら、そのときに一匹の毒蛇が、お釈迦さまを襲おうとしたのです。  その時に、ごの弟子が蛇を退治したのですが、偶然、蛇が弟子の首に当たりました。 そして毒が廻り、彼の顔が真っ黒になった事から、後に馬のカルインダソンジャと言われました。 後に、お釈迦さまが悟りを開いてから、このカルインダソンジヤも、お釈迦さまの弟子になりました。  それは大変な問題児でした。 色んな事をしでかしました。 特に異性関係の問題が多かったのです。  女性に触れてみたり、猥談をしたり、その都度、お釈迦さまに叱られては、その都度その都度に、新しい戒律を頂くことになりました。 そういう方だったのです。近年セクシャルハラスメントなど、新聞やテレビにニュースとして出ていますが、その最先端を2500年前に行った人物である、と言うと分かりやすいかと思います。  この弟子は、一度与えられた戒はニ度と破りませんでした。 ある意味では、自分の持っている本能に惑わされる人でありました。  しかしながら、お釈迦さまには信頼されておりました。 最後には悟りを開き大変多くの人を教団に引き入られました。 そういう方として、名前が残っております。 水子供養を希望される方々の周りにもこのような方がおられるかもしれません。  ですから、水子供養をお願いなさる方々や皆様や私達も、いったん戒を授かりましたら、これを守ろうとするのです。 これは、破ったら罰があるから守るのではありません。 戒は自分自身のものであり、修行であり、一歩でもお釈迦さまに近づこうとする心からなのです。 つまり、努力することなのです。  ところがこの戒は、非常に多岐に渡り、内容一つ一つを見ても非常に細かいため、戒を受ける人によつて少しずつ内容が異なってきます。在家の人と一般の人では、守るべき戒律も異なってきます。 在家の方は、もっぱら誓いを言う戒律を守っていくことになります。  1.不殺生戒ふせっしょうかい‐生き物を殺してはいけません  2.不偸盗戒ふちゅうとうかい‐他人のものを盗んではいけません  3.不邪淫戒ふじゃいんかい‐自分の妻(または夫)以外と交わってはいけません  4.不妄語戒ふもうごかい‐うそをついてはいけません  5.不飲酒戒ふおんじゅかい‐酒を飲んではいけません  水子供養を希望される一般の方もこの五つの戒は仏教と関係が有るとは思わずとも、古くから根付き、戒めとしているのではないでしょうか。 この五つの戒を守ることが在家の人となります。 在家の人は、後述しますが、男性は優婆塞(うばそくupasaka)、女性は優婆夷(うばいupasika)のニ種類があります。 これらを在家宗教と言います。 上記の  upasakaには仕える、敬う、礼拝するという意味があります。 在家宗教は出家者にお布施を行うことによって功徳を積んでゆくとされています。 また、出家者からは教えを受けて(法施)、生活の指針とし生活していきます。 ただ、これらの方々でも、年に何回か一日だけ、多くの更に三つのしきたりを守るということもあります。 これが、三つあります。  6.不塗飾香輩(ふずじきこうまん)-化粧をしたり、華美な服装をしてはいけません  7.不歌舞観聴ふかぶかんちょう-歌舞音曲を見たり聞いたりしてはいけません  8.不坐高広大林(ふざこうこうだいしよう)-高くて立派な、寝床に寝てはいけません  これがこれまでの八戒です。 これにニつ加えますと、十戒になります。  9.不非時食ふひじじき-正午以降は食事してはなりません  10.不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう)-お金や財宝と言つたものを持ってはなりません。  そしてこれら十の戒は在家の人でも、希望すれば受け授かる事は出来ます。 しかし十の戒を強制して守らなければならないとされているのは、沙弥(しゃみraamaNera)や沙弥尼(しゃみにzraamaNerikaa)と呼ばれている人々です。この二種類の人たちは、所謂、小僧さん方に当たります。お坊さんの候補生に当たります。 お坊さんの見習いと喩えられるような方です。

仏教における戒めについて

 引き続き水子供養希望の方々と仏教の教えを読み解いていきたいと思います。 沙弥(しゃみraamaNera)と言うのは男性見習いのことです。 沙弥尼(しゃみにzraamaNerikaa)と言うのは女性見習いのことです。 このニ種類の方は20歳になるまでは正式の比丘びくや比丘尼びくににはなれないのです。 ただ女性に関しては、20歳を過ぎても、そのまま直ぐに比丘尼になると言うことばありません。 女性の場合は、比丘尼になるまで、2年間の猶期間を与えられます。 この期間に六法と言われる六つの戒めを守らなければなりません。  1.断畜生命戒  家畜、生き物を殺してはいけないと言う事です。  2.盗人四銭戒  お金を盗んではいけないと言う事です。  3.染心相触戒  男性と体を触れてはいけないと言う事です。  4.小妄語戒  これは嘘をついてはいけないと言う事です。 先程の不妄語戒と異なる点は、大不妄語戒と言って、自分は悟ってもいないのに悟っていると言ってはならない、と言う事が不妄語戒にあたります。これに対して、小不妄語戒は、大それた嘘でなくとも、どんな小さな嘘でも吐いては駄目と言う事です。  5.非時食  ひじりきと言うことですが、仏教のお坊さんは、実は正午を回ったら食事をしてはいけないと言う決まりがあります。 今の日本ではもう滅茶苦茶になってしまっていますが、いまだに禅宗のお寺さんでは、一日ニ食ではないでしょうか。 朝のお勧めを終わって、おかゆを頂き、そして夜に食事を頂きますが、食事ではなく、体を持たせるために薬として頂くので食事でないという扱いなのです。もっとも我々は適当に食事をしています。  確かにこれらを見ますと、女性には厳しいようにも取られ、とくに差別があるように思われますが、当時のインドの事情やお釈迦さまの生きていらした当時を考えますと、女性を一段低く見ていたと考えられます。これは社会的なもので当時の風習や風俗などそういうものが影響していると思います。現にインドでは昔ほどではないですけれど今もそのような感じを受けます。また当時は女性自体もそれに甘んじていた部分があると言われています。  水子供養を希望される方の多くは女性なので、よくご存じかもしれません。 今のようにウーマンリブ、フェミニズムだなんだ言われている時代ではなく、あくまでも男社会でした。 そのような事から、逆に女性を守るために作られたのではないかと言う方もいます。  6.飲酒  この戒律という物も最初からあった物ではないのです。 色んな問題が起きる度に、お釈迦さまが付け加えて言った物です。 そう言う事は、比丘の方が問題が多かったと思われます。ですから、どのように判断するかは、その時代の人たちに よって変わると思います。一概に仏教というのは、女性蔑視であるとは言えないのではないかと私等は思います。  おそらく、水子供養をお願いなさる方々や皆さんの中に真言宗の人はいらっしゃらないかと思います。 どの宗派でも似たり寄ったりだと思いますが、例えば大乗仏教の戒であれは次の通り、持戒もあります。 これも、重要な実践方法です。  1.三聚浄戒(さんじゅじょうかい) 悪いことをやめましょう  2.摂善法戒(しょうぜんぽうかい) 良いことを進んで行いましょう  3.益有情戒(にょうやくうじょうかい) 自分自身の悟りばかりではなく、多くの人々に救いの手を差し伸ぺましよう この世の生きとし生ける者を救っていきましょう  4.不自讃毀他戒(ふじさんきたかい) これは自分を褒めて、他人をけなしてはいけないということになります。 自慢話もしたいときもあるでしょうが、闘いている人は何を思っているのか分かりません。 自慢話は、面白いものでも何でもないのです。 自慢話をする人に限って、人の事を悪く言う人が多いのです。 そういう人は、尊敬されないのです。  5.不樫法財戒(ふけんほうざいかい) 貪欲を戒めるということ、貪る心を抑えなさい、ということです。  6.不贖患戒(ふしんにかい) 怒りの心を抑えなさいということです。  7.不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい) 仏さまを守っている人をけなしてはいけない、おろかさを戒めなければならないということです。  これらを守ることによって、仏さまの世界に入ることが出来るのです。まずは1つづつ、守りやすいものから水子供養を希望される方の普段の生活の中にも役立つ教えが多いと思います 皆さま方は、曹洞宗、禅宗や、浄土真宗の方々が多いかと思いますが、そういった方々が実際に自分の菩提寺で将来「戒」をお受けになられる機会がある場合には、これが菩薩戒になります。 そういった理由から、説明いたしました。

よく読むお経

 水子供養を希望されている方もご一緒にご唱和ください。このお経はいろいろある中で、水子供養をおこなう時によく読むお経です。

•よく読むお経 懺悔文 『我昔より造る所の諸々の悪業は 皆無始の貪瞋癡とんじんちに由る心語意より生ずる所なり 一切我今懺悔したてまつる』  •よく読むお経 三帰礼文 『人身受け難し今既に受く  仏法聞き難し今既に聞く。 此の身今生に度せずんば、更に何れの生に於いてか此の身を度せん。 大衆諸共に至心に三宝に帰依したてまつる。 自ら仏に帰依したてまつる。 当に願わくは衆生と共に、大道を体解して無上意を発さん。 自ら法に帰依したてまつる。 当に願わくは衆生と共に、深く経蔵に入りて智慧海の如くならん。 自ら僧に帰依したてまつる。 当に願わくは衆生と共に、大衆を統理して一切無礙ならん。』  •よく読むお経 十善戒 『弟子某甲 盡未来際 不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不綺語 不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見』  •よく読むお経 発菩提心真言 『おん ぼうちしった ぼだはだやみ』  •よく読むお経 三昧耶戒真言 『おん さんまやさとばん』  •よく読むお経 開経文 『無上甚深微妙の法は 百千万劫にも遭い遇うこと難し われ今見聞し受持することを得たり 願わくは如来の真実義を解せんことを』  •よく読むお経 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 『観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩、依般若波羅蜜多故、心無礙、無礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経』  •よく読むお経 光明真言 『おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらはりたや うん』  •よく読むお経 ご法号 『南無本尊界会』 『南無大師遍照金剛』 『南無興教大師』 よく読むお経 普廻向 『願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを』
 よく読むお経をお唱えするだけではもったいないということですが、水子の供養を希望される方と法楽しました。

仏前勤行ごんぎょう式 悟りに近づ

 水子供養を希望の方に悟りに近づくための仏教の教えについて解説します。 「仏前勤行式」法楽していただきましたけれども、その内容についてのお話になります。  前に十善戒について解説しました。 悟りに近づくための「戒」といっても、たくさんのものがあり、私たちのような出家者のそれは我々のような完全に僧侶としての資格を得たものが保つべきものと、そしてまた、僧侶見習いの人々が持つ小僧さんのものと、また、そういった違いもある、ということを述べました。  あるいは、南伝仏教といいますか、東南アジアのお坊さん方については、悟りに近づくため具足戒など言う大変たくさんの細かい戒律を守らなければならない、ということも述べたかと思います。しかもこれは、男性のお坊さん(比丘びく)と女性のお坊さん(比丘尼びくに)つまり尼さんとでは、その保つべきものの数が違う、そのようなことも述べたかと思います。  そしてその後、北のほうに伝わってきて、こんにちの仏教の大部分を占めております、大乗仏教となりました。 大乗仏教においては、悟りに近づくために菩薩が保つべきものがあります。 一般的に三種あります。 それをあわせて悟りに近づく三聚浄戒さんじゅじょうかいといいます。  1.摂律儀戒(しょうりつぎかい)  2.摂善法戒(しょうぜんぽうかい)  3.饒益有情戒(にょうやくうじょうかい)  とあります。  前に水子の供養を希望される方とともに悟りに近づくためにお唱えしながら、それら三聚浄戒について説明を述べました。 その続きから入ります。  悟りに近づく摂善法戒に十重禁戒という仏道修行のうえで、悟りに近づく菩薩の守らなければならない10の重要なものがあります。  1.不殺生・・つまりは生き物を殺してはいけないといういましめです。  2.不偸盗・・盗みをしてはいけない、人のものをとってはいけない。といういましめです。  3.不邪淫・・よこしまな男女関係はしてはいけない。不倫とかそういったことはだめだということです。  4.不妄語・・嘘はついてはならないことです。そしてこの不妄語には大妄語と小妄語というのがあります。 大妄語というのは、悟ってもいないのに自分が悟っているというふうに言ってはいけないことです。そのほかの細かい嘘を小妄語といいます。  5.不飲酒・・酒を飲んでは行けないということです。  この5つが悟りに近づく五戒と言われて在家の方々、あるいは出家者、共通のいましめなのです。古くから根付いていますので、水子供養を希望される一般の方も仏教とは関係無しに身についておられると思います ところで、この悟りに近づく5つの内の最初の4つのいましめ、不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語を犯しますと教団を追放されてしまうことになります。  教団から出て行けと言われてしまうのです。 この4つの罪といいますか、いましめを破るとそれによって与えられる罰というのは教団追放です。 ただここで注意していただきたいのは、悟りに近づく戒というのはあくまでも自発的に自分自身で心掛けて守ろうとするものなのです。  ですから、それに対して破ってこういうことをされると、いましめを破ったら教団追放される、ということです。 この、こういった規定というのは悟りに近づく戒ではなく、戒律と言う律にあたります。 つまり集団の内部で規律を保たせると、そのために設けられた罰則規定が律であると言えます。  それに対して何らかのいましめを自分で守ろうとするのが悟りに近づく戒です。 この違いを覚えていただきたいと思います。 こういう戒は、破ったら追放されるから守るのではなく、やはり自分自身が一生懸命仏さまに近づこう、悟りに近づこうとそのために自分で守る、これが大切なことなのです。  さて悟りに近づく5戒のうち最初の4つに対してもう1つ後ろについているのが、不飲酒です。 これは字のごとく、酒を飲んではだめですよ、ということなのです。 私は体が受け付けないものですからお酒はあんまり飲めないのです。  よその和尚さんは酒を飲むとすごい量を飲みます。 いろいろな坊さん宗派がありますが、特に禅宗のお坊さんが酒が強いというような話を聞きますけども(本当かどうか分かりませんが)、けれどもやはりお坊さん方というのは飲んでも飲み方が違うのです。どんなに飲んでも乱れないのです。ですからお酒は飲んでますけれども決してお酒に飲まれない、というのが1つの飲み方なのかもしれません。 水子供養や解説とはお話がはずれてしまいました。

お酒の戒め

 水子の供養を希望される方へ前に説明してきましたが、最初の4つというのは、この戒を犯すと教団追放ということになります。 しかし、この不飲酒は、酒を飲んだからといって特に追放はされないのです。 懺悔させると言いますが、懺悔しないといけないと言うことはあるのかもしれませんが、決して追放になるまでの罪ではないのです。それではどうして在家の戒の時に、この不飲酒ということが言われるかということになります。  水子供養を希望される方もお酒が好きな方、嫌いな方がおられるかもしれません。 お酒を飲むということは、それ自体決して悪いことではありません。 良いことでもなければ、悪いことでもないのです。 飲んで心が朗らかになって気持ちよく寝ることが出きる、そのような具合です。 お酒そのものは「酒は百薬の長」とも言います。 そういうふうに、お酒をたしなむくらいが良いのかもしれません。  しかしながら、仏教においてお酒を飲むことが厳しく戒められるのは理由があります。 つまり、お酒を飲むことによって、最初の4つ戒を犯しやすくなるということなのです。 こういった話があります。  あるところに大酒飲みの2人の男が住んでおりました。 朝からお酒を飲んでいました。 そこで飲んでいるうちに肴がなくなりました。 そして、何かないだろうかと思っていると、そうすると、丁度そこへ隣の鶏が一匹逃げてきて自分の庭先をうろちょろしておりました。 これがしめたとばかりに、2人でその鶏を捕まえて殺してたべてしまったのです。  それが翌日になりました。 あい変わらず2人で朝から酒を飲んでいました。 そうすると、隣のお嫁さんが来たのです。 そして、うちの鶏が一羽こちらに来ませんでしたか、と尋ねました。 しかしながら、もう食べたものですから、まさか捕って食べました、とは言えません。 ですから、鶏なんかみてませんよ、というような感じで嘘をついたわけです。 そのうち、隣の奥さんと話してておかしいですね、などと話をしています。 そうするうちに、隣のお姉さんなかなか美人で色っぽい人だだったので、ついムラムラして2人ががりで隣のお姉さんを犯してしまった、というふうなことがありました。 これが1つの物の例え話なのです。  つまり、つぎのことを表しています。 話の中で、実際に鶏がやって来た。 よそ様の鶏であるにもかかわらず、それを勝手にクスねて捕まえて、そしてそれを殺して食べてしまった。 ここですでに不偸盗戒(ふちゅうとうかい)と不殺生戒の2つの戒律をこの2人の男は破ってしまったのです。  さらに翌日になって、その鶏を探しに来た隣の家のお嫁さんに対して、鶏なんか見ていないというふうな嘘をついた。 これで妄語戒を犯しているのです。  そして、2人して隣のお嫁さんを強姦してしまった。 これで不邪淫戒(ふじゃいんかい)も犯してしまったのです。 つまり4つの罪を全部やってしまったわけです。 仏教徒であればふたりはもちろん、教団から仲間外れにされてしまいます。 追放されてしまいます。 しかし考えてみると、その4つのことは、いずれをとっても、人道的な見地から見ても絶対やってはいけないことなのです。 ところがその2人は普段は、もしかしたらとっても善良な人なのかもしれません。  しかしながら酒飲んで酔っ払っていたがゆえに、その4つの過ちを犯してしまった、ということなのです。 この様にお酒を飲むをいう事は恐ろしいのだよ、ということを教えてくれているのです。 仏教ではお酒を飲んでないとこのようなことを言う様になったと言います。 ですからお酒を飲むのは、飲むこと事態は決していいことでもなければ悪いことでもない、そのどちらでもありません。 しかしながら、これによって戒律を破りやすくなるということの為に戒められているのです。 ですからお酒が好きな人は決してくれぐれも悲しまないで頂きたいと思います。 分をわきまえてお飲み頂く分には一向に差し支えないと思います。  水子の供養を希望される方とお経を読んでますけれども、その次第の中にでてくる戒は少し違います。 これまでの戒とはちょっと形状が異なります。 十善戒という戒、これは五戒といいます。 それに対して確かにこの不殺生から不妄語までの四つというのは十善戒と同じです。 条項としては読む分には一緒です。  ただなんでわざわざ十戒ではなくこの間に「善」という字が入っているのかということが、1つの問題となる訳です。 十善戒という戒律というのは仏教の様々なお経の中でも非常に古いものから出てきます。大乗仏教の中でも「般若経」「般若心経」もその1種です。「般若経」といわれるお経というのは比較的古く成立したものです。

修行としての十善戒

 引き続き、水子供養を希望される方々と仏教の教えを読み解いていきます。 その中にすでに、十善戒というものが、現れてきました。 十善戒がずっと仏教の最後の最後までお経の中に説かれていくような形になります。 そしてこの十善戒というもの、これは特に真言宗系ではよく使います。 この十善戒というのは、不殺生(ふせっしょう) 不偸盗(ふちゅうとう) 不邪淫(ふじゃいん) 不妄語(ふもうご) 不綺語(ふきご) 不悪口(ふあっく) 不両舌(ふりょうぜつ) 不慳貪(ふけんどん) 不瞋恚(ふしんに) 不邪見(ふじゃけん)とあります。 水子の供養を希望される一般の方も文字を見ると、すぐに十善戒の意味が分かります。  •十善戒1−不殺生というのは、生き物を殺してはならない。  •十善戒2−不楡盗というのは、盗みをしてはいけない。  •十善戒3−不邪淫というのは、よこしまな愛欲行為をしてはいけない。  •十善戒4−不妄語というのは、嘘ついてはいけない。  •十善戒5−不綺語というのは、おべんちゃら、お世辞を言ったり、中身のない言葉を言うのはいけません。  •十善戒6−不悪口というのは、人様の悪口を言わない。  •十善戒7−不両舌というのは、どっちにもいい顔をしてお互いの仲を悪くするような言葉使いや、言葉の活動をしてはいけない。イソップにこうもりの話が出てきますけれども、日和見的で、せっかく仲良くしている人の間を裂くようなことをしてはいけないということになります。  •十善戒8−不慳貪というのは、むさぼりはいけない、物惜しみしないことです。  •十善戒9−不瞋恚というのは、怒っちゃいけない、腹を立ててはいけないということです。  •十善戒10−不邪見というのは、間違った物の見方をしてはいけないということです。  そのように文字から見ればそのように読めるし十善戒が解釈できます。 しかしながらこれは十善戒の「表」の意味に過ぎません。 実は、この十善戒の「言葉の意味」の後ろにもっと深いこの「戒の意味」がある訳なのです。 密教においては、この十善戒を守る事によって我々自身がそのまま仏になることが出来るのです。 そうした修行の一貫としてこの十善戒が説かれています。 「人の人たる道というのはこの十善にあるぞ、人たる道をまったくきてけんせいの地位にも至るべし高く仏かをもきすべき也」 これは江戸時代の末頃のでた真言系のお坊さん慈雲尊者の代表的な作品です。 そのなかに『十善法語(じゅうぜんほうご)』という書物のなかに出でくる言葉です。  人の道というものが、この十善を修めることによって出来上がるのだということです。 これを完成できれば聖者の位に入ることも出来ます。 つまり仏の悟りをも、この十善を学ぶことによって達成することが出来ますとおっしゃっています。 水子の供養を希望される方も十善戒で出来そうな事からで結構です。普段の生活の中で実践してみてください。  そして、この十善戒の内容です。 十項目ありますけれども、大きく3つに分けることが出来ます。 まず、最初の不殺生、不偸盗、不邪婬の3つ。 これから線を引いて、身密(しんみつ)と書いてます。 次に不妄語、不綺語、不悪口、不両舌とこの4つ。 これををくくって線をひいて、口密(くみつ)と書いてあります。 そして最後の不慳貪、不瞋恚、不邪見の3つをくくりまして意密いみつと言っています。 この身密(しんみつ)・口密(くみつ)・意密(いみつ)とかそういった言葉を聞きなれない方も多いのではと思います。 「貪瞋癡(とんじんち)がどうの〜」その中で、三業というようなのが出てきたと思います。  私達、人間の行動というものは体での行ない。 言葉や言語活動による行い。 そして、心の中での行ない。 この身口意と言うんのです、というようなことが出てきてた気がします。 この十善戒の身の行ない、口の行ない、心の行ない、これは私達人間の普段の活動です。  ところが仏さまの場合は、三業とは読まないのです。 仏さまの活動というのは三密とよばれます。 ですから、仏さまが体で示される行為というのは身密(しんみつ)です。 そして仏さまの言葉は口密(くみつ)によるものです。 そして仏さまが心の中で念じてあるのは意密(いみつ)です。  この三業というのは私達迷っている人の行為です。 そして、仏さまとは悟っている人のことです。 悟りによって行なわれるのは三密なのです。 この十善戒を学ぶことによって、私達の三業が高められて三密になるという訳なのです。 密教においては、私達の身口意の働きと同じものなのだと考えるわけです。  ただそれが表面に出で来るときに水子の供養をお願いなさる皆さまや私たちは自分の迷ったものの見方によって行動するから変になってしまいます。 仏さまはそれが悟りにもとずいて行動されるから、正しい立派な行為になります。 それだけの違いですから、自分の手で仏さまの印といいますか、仏さまも手を組んでますけれども、そういった印を手に結んで、口に仏さまのご真言を唱える、お不動さまなら「のーまくさんまんだーばーざらだんせんだーまーかろしゃだーそわたやうんたらたーかんまん」でありますし、お釈迦さまでしたら「のーまくさんまんだーぼだなんばく」になりますし、阿弥陀さまなら「おんあみたりたていせいからうん」となります。  そういうふうに、お唱えすること。 そしてそのお唱え仏さまの御姿を心の中で念じること。 そうすることによって、私たちの三業の働きが仏さまの三密の働きと一致するという発想が密教の中には有ります。 この一致する、させるための行というものを密教では三密瑜伽(さんみつゆが)と言います。 水子の供養を希望される方も一般の方もお唱え、念じてみてください。

三密瑜伽ゆがの行

 水子供養の方々と仏教の教えを読み解いていきます。 この「瑜伽(ゆが)」というのは、いわゆるヨーガといいます。 それと同じ意味なのです。 一致させると統一するというふうな意味あいを含んだ言葉なのです。 私たちの働きと仏様の働きとを一つに結び付けるというのが瑜伽三密の行になります。  確かに、我々のような密教の僧は徹底して修行の時にこの三密瑜伽というのを叩き込まれます。 いろいろな次第があります。水子の供養にも次第があります。 そのなかで、護摩祈祷で、護摩を焚いたりとか、祈祷したりします。 けれどもその祈祷の基本になるのもやっぱり三密瑜伽なのです。  次第は誰でもかれでも見せてはならないというふうになっています。 ですから密教の奥儀に関する部分三密瑜伽を勉強するというのが、なかなか難しいのです。  しかしながら、十善戒というものを学ぶことによって誰でも三密瑜伽の行をすることができるのです。 そして三密瑜伽が究極の状態に達すると、私たちがこの生身の肉体を持って仏さまの働きをしようと、そしてその実際の働きをすることが出来るのです。その境地に至ることを、即身成仏といいます。  よく混乱するのは、ここの1字が抜けて即身仏なのです。 山形県の出羽三山の方に行きますとミイラ仏っていうのがあります。 即身成仏というとああいったミイラ仏です。 かたまり仏とも言いますが、そのような方々のことを指すのだと思ってしまう方が結構多いのです。 けれどもあの方々は自分の理念によってこの世で苦しんでる人々を救う為にあえて自らの身を犠牲としてあのようにミイラになっていったのですが我々はなかなかそこまでは出来ません。  実際に自分の命を捨ててまでミイラになっていくのはなかなか出来ることではないのです。 けれど、即身成仏は私たちが今生きて現在にこの世に生きたままの身でこの心でこの言葉で仏さまの働きをすることが出来るということを意味してます。 三密瑜伽(ゆが)を一生懸命極めれば、この身このままに仏様の悟りを身に付けることが出来るのです。 これが密教の1つの特徴です。 水子供養を希望される一般の人々には日常の生活があります。 ですから私達が一般の人々になりかわり、三密瑜伽の行としてお寺にこもって薄暗いお堂で手に印を結んで念じるのです。 真言を唱えて心に仏さまを念じる三密瑜伽の行は、なかなか出来ることではありません。 けれどもその日常生活における1つ1つの行動を一挙手一投足に仏さまの心にかなうような行動になっていけば、それは仏さまと同じことなのです。そうなっていく為には十善戒を学べばよいということになるのです。 ここで十善戒は何かしてはいけないといういましめではないのです。 むしろ積極的に何かをしなさいと勧めるいましめなのです。 水子供養をお願いなさる方々やみなさんは戒律というふうなことを言われると、がんじがらめにされるような気分になるのではないかと思います。これしてはいけない、あれしてはいけないとそういう気持があると思います。そういうなにか特定の行為に対してそれを静止する、してはいけないというふうにするいましめをまとめて、遮戒(しゃかい)と呼ぶことが出来ます。  「しゃ」は遮るとか静止する、踏切を遮断機といいます。 この遮です。 さえぎるという意味になります。 心を遮る戒でなのです。 私たちの様々な迷いのもとに煩悩があります。 この煩悩の代表かこれなのです。  よくご存知の貪瞋癡(とんじんち)であるわけですけれども、遮戒は、この貧瞋癡を滅ぼすいましめなのです。 ただこの貧瞋癡は人間本来の本能ですから、貪りの欲求はいわゆる物を食べる生命維持活動なのです。 癡(ち)、怒りというものは防衛本能です。 これを全くなくしてしまうと生命活動そのものを止めかねないものです。 人間を生きていてはいけないというふうに言いかねない危険性が確かにあるのです。  これに対して十善戒に書いてあるものを一つ突き抜けますと、何かをしてはいけないと言うのではなく、むしろ何か良い事をしていこうと表に現そうとしたりします。徳を表に現そうとするのが十善戒なのです。

長所を伸ばす十善戒

 水子供養をご希望の方と仏教の教えについて学びます。 心の中が清らかな人間は誰しも仏様に通じるものを持っています。 それを磨いていこう、表面に出していこう、とするのが表徳の戒です。 人間と言うのは、どうしても人の短所ばかり目に付くのですが、短所というのをいじるとろくなことにならないと思います。また、それよりも、長所を伸ばしていけば、短所は自然に少なくなってくるとそういうようなことです。  それと同じことなのです。 あえて短所を削っていこうと努力するよりも、その人本来持っている長所を伸ばしていくための戒が十善戒なのです。 人間の中にある仏様の力を精一杯生かしきっていくということなのです。  たとえば弘法大師はこの私達の心の中に眠っている仏さまのお力のことを「無我の大河」と、表しておられます。 無我と言うのはすべての仏教で言われます。 水子の供養をされたいと思っている方も「私」という固定した存在はないのだという事を仏教では言います。  全ての物には実態と言うものはない。当然、自分と言う実体も存在しないのです。 このことを別の言葉で表せば「空」というようにいえるかもしれませんが、これが無我なのです。 いったん全てを否定するのです。  否定を重ねていくとその中で本当のものが最後に残るのです。 その最後に残ったものに大河と名前をつけます。全てのものが生きていこうとする力、そして全てのものが幸せになろうと願う力、それが大河です。私達一人一人が幸せになっていこうとするその力、けれどもこの我の部分だけが大きくなってくると「自分だけよければいい。」という考え方・・・だからあえて自分を殺すのです。まず自分を抑え・・確固たる自分というものはないと自分を否定する、そうして世界全てを積極的に肯定していくのが無我の大河です。  大河という事だけをとるとこれは、ヒンズー教というインドの宗教、マハーアウトマンという題名になるのです。 しかしこれは実体としてそういった偉大なる存在というものがあるとインドでは考えますから仏教はこれは一応否定します。  けれども否定して改めてもう一度肯定すると、否定したものをもう一度否定するという言葉で表わすのは多少難しい部分があるのですが、そういったものをこのような表現のし方をしています。ですから一番最後に書いてます。 精一杯仏としての命を生かしきっていく、仏さまから頂いたという表現の方がわかりやすいかもしれませんが、仏さまから戴いたということよりも私達がこの身、このまま実は仏なのだということなのです。  水子供養を希望される方も一般の方も私達の命はそのまま仏さまの命と同じものです。 ですからその命というものを精一杯生かしていこうとすることが人間としての本来の生き方なのだというのがこの十善戒の発想の根底にあるわけなのです。十善戒とは方便道です。  水子供養をお願いなさる方々や皆様もご存知でしょうが、嘘も方便なんて言います、方便という言葉が密教には大変重要な意義を持つ言葉だとされています。 そして十善戒を身につけていくということはこの方便の道を歩むということであるということが出来ます。問題になるのはこの方便という言葉が何を表してるのかということなのです。  一般にこの方便というのはほかの人と言います。 人々を導くための手段、方法こういったものを方便というのです。 ですから、俗に言ううそも方便という時の方便はこの意味なんです。  もしかしたら、うそをつく事になるかもしれないけれどもうそをつく事によって何か間違ったことをしてる人々を正しい道へ引き戻す、そうすることをうそも方便と言う訳ですが、そのようにたくみな手段を使って人々を導いていこうとすることを方便といいます。  ただ一般に仏教において方便という言葉が使われる時にはこの方便というものは、悟りです。 真実の智慧に向かって人々を導く為の方法であると、だから方便というものは真実の智慧よりは一段、劣ったものなのだというのが一般の仏教の考え方なのです。

十善戒とは

 水子供養を希望される方々と仏教の教えを毎回読み解いております。 お釈迦さまの教えを直接聞いて悟る、声聞と呼ばれる聖人達あるいは縁起というものを自分で自然に悟って仏になる。 悟りを開く縁覚と呼ばれる人達。 こういった人々というのは自分だけ悟ればいいと考えてるから劣った教えであると。 本来優れた教えというのは菩薩の教え、自分が悟るだけではなくほかの人々も悟りへ向かわせようとする教えが優れてるとします。 しかしながら声聞や縁覚というものの教えをお釈迦さまが説かれたのは何故かというとこの声聞や縁覚の教えを説くことによって人々をまず仏の道に入らせるのです。そしてこの教えに対して十分理解が出来たところで改めてより高い境地である菩薩があるのだよと説くのです。 そして悟りへと導くのです。 段階的にプロセスを追っています。  水子供養を希望されている方は、いきなり菩薩の教えを説いて理解出来る人です。 しかし、いきなり菩薩の教えを説いても理解できない人も一部います。 ですからその人達にはあえて一段劣った教えを説いてそこで導いてから本当の教えを説いて悟りへと導く、これが一般的な仏教の考え方なのです。  ところが、これが密教の場合はこれが少し違うのです。 方便というのは、この真実の方便である、という物の見方をするのです。 だから、真実の智慧はそのまま方便の働きですから、方便が劣ってる訳ではないのです。  方便と真実の智慧というのは同じ重さを持っています。ですから悟りを開いた人に限らず悟りを目指す人もこの方便を一生懸命しないといけないのです。人々を導いていこうという仕事を一生懸命しないといけないのです。 実はそれが悟りそのもの本来の現れ方なのだというのが密教のものの考え方で密教的な発想になる訳です。ですから、智慧といっても悟りすまして人々を導くことが出来ないのであればそれは意味がないと言うふうに考えるのです。それが具体的に人々を救おうという行動として現われた時に初めてそれがありがたいものなので、意味を持つ考え方をするのです。  そして、その内容として十善戒が説かれています。 十善戒の内容を示していく形になる訳なのですが、まず最初に不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)この3つの戒めを実践すると言うことはそのまま身密(しんみつ)行の実践であるということになります。 まず不殺生戒ということです。 字を見ると生き物を殺してはならないということに取れます。  それはもちろんそうなのですが、これは十善の場合にはそれをさらに通り越して周りにいる生きてる全ての命を守ろうという努力をしなさいということになるのです。つまり一般の方も水子供養を希望される方も全員が自分の中に慈悲の心を育てなさい、ということなのです。 これが不殺生戒です。  不偸盗は、一般的には盗みをしない、人様の物を勝手に奪わない、ということなわけです。 しかし、これが十善になると、知足の法と足る事を知るということになります。  あれも欲しい、これも欲しいと勝手気ままに思うのではなくて、水子供養をしようとする方も自分に今与えられてるものを大切にしてくださいということなのです。 自分が今持っているもの、自分が何か与えられているという事に対して感謝する気持ちを持たなければいけないのです。 そのようなことが十善における不偸盗戒なのです。  そして不邪淫戒。 これは敬愛の念を根底に自らの本分を尽くし合おうというふうに書いています。 不邪淫といいますと、不倫をしないとかよこしまな愛欲関係をしないとか、男と女の結婚生活をみだりに乱さないとか、そういうふうにとらえることが出来るし、そのようにとらえられる事が多いのですけれども、それはあくまでも否定的なものです。  そうではなく積極的に互いに尊敬し合うという事を大切にしようとするのです。 そして自分が与えられている役割とていうのは一生懸命こなそうと。 これが尽くし合う、自らを尽くすということなのです。

4つの戒

 水子供養を希望されている方と仏教の教えを毎回少しづつ、読み解いております 人間は、自分のことを棚に上げて人の足りない所ばかり言うことがあります。 あいつはこれが出来ていない。 こいつはこういうことが出来ていない。 けれども、そういう人に限って自分のやってることも中途半端だったりするのです。 水子の供養を希望されている方の中にも思い当たることがあるかもしれません。 まず自分がやるべきことを一生懸命やると、そして周りの人々を尊敬するとそういう気持ちを養っていかなければならないということなのです。愛するということ、愛という言葉も非常に微妙なニュアンスによって良い方になったり、悪い方になったりします。  その分その愛の後ろに智慧があればこれは人々を互いに尊敬し合うということになります。 しかし、迷いや煩悩があると、自分だけ愛されようとしてしまいます。 自分のやりたい放題にしようとなってしまいます。 そして、他の周りの人のことはどうでもよくなってしまうのです。  それでは社会は成り立っていきません。 人間は縁によって、お互い出会うのです。水子供養をしようと今このページを見てるのも一つの縁なのです。 その出会いを仏さまから頂いた縁だと思って大切にしようという意味も含まれているといわれています。  自分の旦那さん、あるいは自分の奥さんというのもやはり縁があったのです。 出会ったと言うことはやはり仏さまの導きがあったということなのです。 そういった人々を一生懸命大切にしていこうと、お互い思いやりをもって、思うことになるそれが不邪淫戒であると言う訳なのです。 そしてこれをまとめると、この世の全てのものはみんな仏様の命の表れだということが言えると思います。 ですから、その全てのご縁と全ての命というものを大切にしていくことです。 そういう姿勢が身密行を完成させていく道になるのです。  次に2つ目、口密行の実践になります。 不妄語 不綺語 不悪口 不両舌の4つの戒が説かれます。 不妄語というのは分かりやすいと思います。  うそをついてはいけないことは、裏返せば真実を語りなさいになるのです。 たとえば密教真言宗、成田山も真言宗の中の1つですが、真言というのは「のーまくさんまんだー」という呪文も示しますがこの真言の言葉の本来の意味は真実語です。  本当の言葉は仏さまの言葉なのです。 ですから不妄語戒というのはそういう本当の言葉で話そう、そのように努力をするということにほかならないのです。  それから次に、不綺語というのが出できます。 この綺語、この綺といういのは綺麗とかいう綺なのです。 飾り立てるということです。  飾り立てた言葉は、表面ばかりで中身が無い言葉、お世辞とかおべんちゃらとかなのです。あるいは、その人の為を思って言った言葉ではなく、自分が儲けたりする為に人をたぶらかそう騙そうと思って使う言葉が綺語です。ですから不綺語戒というのはそういう中身の無い言葉ではなく思いやりのある言葉、内容がこもった言葉を話そう使おうとすることなのです。  次が不悪口です。 悪口(あっく)と読んで字のごとく悪口なのです。 人の悪口を言うことです。 しかし、字からみれば不悪口戒は人の悪口を言わないとなりますが、これをさらに掘り下げていくと、悪口と言うのは人の気分を害するような言葉です。そうではなく不悪口戒というのは人が心が気持ちが安らかになるような言葉、人がうれしく楽しくなるような言葉がけをしてあげようとすることなのです。 水子供養を希望される方の中にも気がつかれた方があるかもしれません。それができると世の中はとても平和になります。  人の短を言うなかれ己の長を説くなかれ、と書いています。弘法大師の言葉らしいのですが、人の短所をあげたててはいけない、そして逆に自分の長所をひけらかすこともしてはいけないということです。 聞いていてどっちも聞き苦しいです。  当然自分の悪口を言われるのは嫌ですし自慢話ばかりする人と付き合うのも嫌なものです。 そのようなことをいうのを戒めるのではなく誰でもお互いに気持ちが暖かくなるような、安らかになるようなそういう言葉、つまり人が何か素晴らしいことをやったら積極的に誉めてあげるというのも、この不悪口戒の中に入るとおもいます。  これが度をこすとたちまち綺語になってしまいます。 ただ、お世辞と本当に誉めるというのはどう違うかというとですが違いは、真心がこもっているか、こもっていないかなのです。 やはり心が大切だと思います。

仏様の本質は慈悲

 不両舌というのは2枚舌のことです。 2枚舌を使うといいますと一般に嘘をつくことと返されますけれど、実際にはこっちとあっちで言うことが違うこと、どちらにでも都合が良いようなことばかりしか言わないことを2枚舌といいます。  最近は三枚舌、四枚舌などというのもいるようです。 けれども、そういう都合の良いことばかり言ってる人間関係が非常にギクシャクしてくるのです。  不両舌が招いた良い例がありました。 そして例えば三人いるとします。 AさんとBさん、そしてCさんとがいる。 このCという人が饒舌です。 Aに対してはAにゴマをすって、Bって言う奴はとんでもない奴なんだという風なことを言うのです。 変わって今度はBに行ってBにゴマをすって、Aという奴は、とんでもない悪党でとか言うわけです。 そうするとAさんとBさんは、このCさんの言うことを真に受けて、Bというやつは悪い奴だとAは思ってしまいます。 AはBというのはとんでもない人だと思ってしまいます。 そうするとこの二人の間、関係というのは壊れてしまうのです。  両舌というのはつまり、人と人との間を裂く行為なのです。 そういったことはしてはいけません。 そして、更に突っ込んでいくと「人と人とを結びつけるような、人と人とが例えば友好関係を結んでいるならばその結びつきというものを大切にしてあげるような言語活動をしないといけない。」ということ、つまり慈悲なのです。  これは自分自身も含めて多くの人々と互いに巧手を取り合って助け合って行くためには、やっぱりその中で、心を込めて相手のことを認めてあげてやるということそれが慈悲なのです。そしてやはり誰に対しても同じような慈悲の態度で接していく、相手によってころころころころ態度を変えていったら最後にはやってる本人が信じて貰えなくなってしまいます。  そんなことになったら大変です。 やっぱり信用されるということには何に対しても同じような慈悲深い接し方をすることです。 誰に対しても筋道を通す、そういう言葉を使っていこうと、そういったことが不両舌戒ということと言えると思います。 そしてこの4つの言葉のいましめ、総括していいますと、この言葉の本質というものが出てくるのです。 言葉の本質というのはやはり思いやりなのです。 思いやりというのは慈悲なのです。 そして、仏さまの本質というものも慈悲なのです。  すべての人々を生かしてあげよう、救ってあげようそういった気持ち、それが慈悲です。 ですから口密行というのはまず言葉によって思いやりのある言葉を使っていくとそれが苦蜜の行の完成へとつながって行くのです。 仏教の教えとは関係無しに水子供養されている方、一般の方も慈悲は実践されているのではないでしょうか そして最後に3つ残ります。 不慳貪(ふけんどん)、不瞋恚(ふしんに)、不邪見。 この3つは態度というよりも心の中で主に表わすものですから、意味通りに感じてくることになります。  まず不慳貪というのは何でしょう。 文字から言えば慳というのは、物惜しみをすることです。 貪というのはむさぼること、そういった物惜しみをしたり、むさぼったりということをしてはいけないということなのです。 ただこれが足るを知るという風に解釈すると、不愉盗(ふちゅうとう)と同じ意味になってしまいます。  確かにそういう意味もあるのですが不慳貪がむさぼらないということを突き詰めていくと、180度態度が変わってきます。 物に執着する心を離れてその代わりに自分が持っているもので人に与えられるものはどんどん与えていこうと、そのような慈悲の考え方になる無尽(むじん)の供養と書いてますけども、供養というのは、なにも先祖供養とか水子供養とかそういったことではなく、真心とかあるいは財物でもよいのです。

不慳貪ふけんどんの戒

 人のために差し出すことを供養というのです。 ですからこの無尽(むじん)の供養というのは言葉変えれば布施の行をすることです。 水子供養希望の方とお経をお唱えしてまいりましたが、お経を読んだりする以外にも供養は様々できるのです。 布施の行をするにはやはり物惜しみの心、慳貪(けんどん)があってはいけません。 ものに対する執着心を離れて自分の持ってるものの中で人に分け与えることが出来るものであれば率先して与える方つまり不慳貪(ふけんどん)がよいというのです。人間は生きてる間に使うことが出来るものはある程度限られています。  財産にしろ何にしろ、ただいたずらに、むやみやたらにそれを溜め込むことだけに執着する慳貪な人が中にはいます。 けれども死後の世界にそういうものを持って行くことは出来ないのです。 慳貪しても何の意味も無い、どうしようもないのです。 ならば、そういうものを、もっと有意義に使ってもらう為に周りの人々に与えきる不慳貪方がよほどよいのではないかと思います。それが布施の行として、布施という非常に仏教の中では、大変大切な行為だと言われてます。わかりやすくいうとお墓参りや水子供養をした後に食べ物、花などを備えることも布施、不慳貪なのです。  「虚しく行きて満ちて帰る」とおっしゃった方がいます。 これは弘法大師の師匠である、恵果阿闍梨(あじゃり)が亡くなられたときにその秘文を弘法大師がお書きになられました。 その中に恵果阿闍梨の所に何かを求めていった人は、最初は何も持たずに虚しい気持ちで行ったけれども、帰って来る時には満ち足りた気持ちで帰って来る事が出来たということです。  恵果阿闍梨は、中国でも大変得の高い有名なお坊さんでした。 ですから当時の皇帝からの信認も厚く、様々な財宝とかあるいは信徒からのお布施も集まってくる、そしてそれを貧しい人々に分けていう、耐えていたし、あるいは弘法大師のようになにか教えを求めて行った人にはその人に対して惜しみなく持ってる教えというものを、仏教の法というものを与えていく、そういうことが私達においても大切なのです。  人に求められて与えられることもありますし、それと同時に実際に困っている人を見つけてそれに何か出来ることがあるのであれば、率先して自分の方からしてあげようという気持ち不慳貪を起こすということです。バスなどに乗っていても席を譲ってあげる立場から、譲られる立場の方に移ってくるものですが、そのようなときでも、やっぱり重たい荷物を持ってる人にあったら、自分が席に座っているのであれば、それを膝の上に置いてあげるとか出来ると思うのです。  そうした、ささいなことでもよいから、何か自分の出来ること、人の為にしてあげることがあれば、それをしてあげようとそうした気持ちを持つことが不慳貪の戒であるのです。 水子の供養を希望される一般の方でも不慳貪の戒を生活の中に取り入れやすいと思います。 次に、不瞋恚(ふしんに)ということ、瞋というのは目へんが付いています。 怒りを目に表すこと、言葉が笑ってる、表情も笑ってる、だけど目が怒ってるって人が時々います。 心の中がむかむかきてるけれどもあえてどなりつけたりはしない、笑っているけれども目が真剣に怒っていることがあります。そういう目に怒りをうかべることを瞋(じん)といいます。  そして恚というのは、漢字の通り下に心があります。 そうは、下心があるのです。 心の中が怒りに満ちてることを恚といいます。 ですから、瞋恚というのは怒ることをいいます。 そうすると、不瞋恚というのはまず第一に怒ってはいけないということを意味する訳です。 ただ、ここで出てくるのはつまり怒りというものの本質は何なのだということです。 さっき愛というものがその根底に智光をもってくるか迷いをもってくるかによって大きく内容が変わるといいました。 それと同じように、この怒りというものその後ろに迷いがあるか、あるいは知恵があるかによって異なります

不瞋恚ふしんに戒と不邪見ふじゃけん

 水子供養を希望される方の中には、お子さんがいらっしゃる方があるかもしれません。 たとえば小さい子供達、小さくなくてもいいのですが、子供達がとにかく悪さばっかりすると、そうした時に親はどういう行動をとるかと、かわいいかわいいだけやってたら、とんでもない子供に育ってしまいます。やっぱり悪い時には悪いと、どうしてそんなことするのだと、戒めなければいけない、叱りつけなければいけないのです。その叱るということもこの怒りの1つの表現です。  しかし、その背景にその子供達を導いてあげなければならない、立派な大人に育ててあげなければならないという気持ちがあると、そういうことで子供達を叱ってもそれは決して非難の対象にならない訳なのです。中身が行き過ぎてビシバシ体罰し、子供がとんでもない状態になったりすることもあるのです。度をこすのはいけないのですが、やはりそういう怒りであれば、かまわないのです。  力任せに怒ることが問題なのかといいますと、人間、大体怒るときには自分のことや、自分に関するなにかあって、自分が怒るのです。自分の思うようにならないとか、自分の必要なものが手に入らないとか、あるいは、悪口を言われたと、大体そういうのは自我が傷つくのです。怒りをもつ最大の原因は、大体この自我が傷つけられるから怒ってしまうのです。けれども、仏教では自我は無いのだと、実体としてある自分はないのだとそんなものがある訳ないものが傷つくわけなのです。  ですから自我という迷いがあるから怒らなければならない時もあります。 その怒りの後ろにあるのは、慈悲ではなければならないのです。 つまり不瞋恚(ふしんに)戒というのは慈悲の気持ちを身に付けよ、そして慈悲の気持ちさえあれば怒ってもよいというふうにいえます。  たとえば、成田山の本尊である不動明王の顔は怒りの表情を浮かべておられます。 しかしあれはやはり全ての生きとし生けるものを悟りに導く為に多くの人々の弱い心を怒りつける、煩悩を打ち砕くと、そのために怒りの表情をとっておられるのです。しかしながらそれはやはりその奥底にあるのは仏さまの慈悲なのです。 この慈悲が優しい教えだけでは救われない人々を救うために、怒りの表情を持って現れたのが、不動明王をはじめとする明王と呼ばれる方々です。  ですから私達も、自分が傷つけられたとかで怒るのではなくて、明王のような怒りをもって怒りなさいということです。 それを、偉大なる怒りということで大憤怒(ふんぬ)といいます。 水子供養をされる方の中には男性もおられますね。お父さんのような怒りだと思ってください。とても厳しく怒りますが、そこには優しさと導こうとする精神がかくれています。 憤怒だけだとあまり意味は変わりませんが、頭に大がつくと内容が変わってきます。 どうせ怒るのなら大憤怒の怒りを持ちなさいということなのです。  大憤怒の怒りはどこに対して向けられるべきかということも出てきます。 確かにこれは愚かな人々を導くためにも必要ですが、まず第一にこの大憤怒の怒りは自分自身に向けなければなりません。 自分に対して、おまえそんな生活をしていていいのかと、人間としてせっかく生まれて来たのであるならばもっとやるべき事があるのではないか、そのように自分自身に言い聞かせて仏さまの示された道、正しい道、悟りへの道を歩いて行こうという気持ちを起こすのです。 これが不瞋恚戒です。  そして最後に出てくるのが不邪見(ふじゃけん)です。 あやまった見解を持ってはいけないという訳です。 水子供養を希望される方の中にもこういった経験がある方はおられると思います。 あやまった見解、邪見の最たるものは、命の真実というものを知らぬことです。 命の真実というのは何か、私達一人一人全ての命は全部、仏さまの命なのだということです。 自分の命というものが仏さまの命であることに気が付くと、自分勝手な自分さえ良ければというふうな行動は出来なくなります。周りの人々の命もそれぞれ尊重していかなければならないと思うようになります。 そして、又、自分自身も仏さまの分身として、あるいは仏自身として生きて行こうと努力します。  ですから仏としての命を精一杯生きていこうという姿勢を身に付けるということが不邪見戒に成る訳です。 密教の根本経典の中に大日経というお経があります。 この大日経の中に「実のごとく、自らの心を知れ」とあります。 これが即ち悟りなのだと出てくる自分の心を知ると自らの心を実のごとく知るということは、つまり自分の本質であるということです。  仏としての命、己の命の真実に目覚めるということにほかならないのです。 日本は物が有り余ってます。しかし物だけに偏重してる世の中は長く続いてまいります。その中で心は忘れ去られます。しかし決して物という物をないがしろにしろという訳ではありません。  私達はこのようにいろいろな活動をすると、自分自身が勉強し、あるいは自分自身が人々のために何かやってあげようとする気持ちを起こして実際にそれをすることが出来ます。それはやはりこの肉体が有るからです。実はこの肉体と心は別々のものではないのです。分けがたいのです。しっかりと結びついているのです。しっかりと結びついて初めてこの世において意味を持ってる、そしてこの世の全ての物質1つ1つに対してもその中には仏さまの命が宿っておると考えます。 このように考えるのが大乗仏教です。 そして、日本の仏教の根底に流れている教えではないかと思います。  「もったいない」という気持ち、その根底にあるのはやはり慈悲ではないかと思います。 全てのものに対する、慈しみの気持ち、哀れみの気持ち、そういった気持ちを大事にし、行ないを重ねていくことが、私達が仏さまや悟りに近づいていく道なのです。この十善戒を行なっていけば、取りも直さず、これは慈悲の心に目覚め、その一点に尽くすことも可能なのです。  それから、ここではは触れませんでしたけれども、この十善戒の他に密教では、ほかの戒も使用します。 三昧耶戒眞言(さんまやさとばん)とが出てきます。

三業と三密

 水子供養ご希望の方はご一緒にお唱えください。 •十善戒 『弟子某甲 盡未来際  不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不綺語  不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見』 上記のお経は、十善戒と申します。  十善戒というのは何でしょうか。 それは即ち、実際に悟りに近づく為の私達が自分の肉体を通じていろいろな行いをしていく行であります。  1.不殺生(ふせっしょう)  2.不偸盗 (ふちゅうとう)  3.不邪淫(ふじゃいん)  の最初の三つが、体の行です。  次が  4.不妄語(ふもうご)  5.不綺語(ふきご)  6.不両舌(ふりょうぜつ)  7.不悪口(ふあっく)  この四つになります。  これは言葉の行に当たります。 次が  8.不慳貪(ふけんどん)  9.不瞋恚(ふしんに)  10.不邪見(ふじゃけん)  でありますが、これは私達の心の中の行いであります。 ですから、慌てると行いが十色の行いを正しくするので、十善戒と言います。  この三密(さんみつ)と云うのが一つのポイントになります。 私達の行いは、体で行う、言葉で行う、心で行う、の三つのうちのどれかに相当します。 この行いは三業(さんごう)と三密(さんみつ)ではどう違うのかと言うと、三業は私達人間の迷っている行いであり、三密は悟りを開いた仏さまの行いを言います。  そして密教においては、私達の三業と仏さまの密を一体に結びつけるということを学んで、自らそれを修行していきます。 これを三密業といいます。  ですから、私達の普段の行いを仏さまの行動に近づけていくことになります。 私達の使っている言葉も仏さまに近づけていき、私達も仏になるのです。 水子供養をすることも全ての行いがそうです これを三密による即身成仏といいます。 即身仏は自ら食べ物を絶って、断食し、自らの体をミイラになったようにし、人柱になって人々を救い、自ら土の中に潜って命を絶つのです。即身仏は、山形のほうに自分の意思で亡くなった即身仏があると言われています。  即身成仏とは、私達が両親からもらった肉体を持ったままに成仏すると言うことです。 一般に亡なった方を私達は仏さまといいますが、人間死んだら、皆仏になるかと言うとそれは保障の限りではありません。 浄土系では極楽浄土(往生)と成仏は意味が違います。 往生は、仏の世界に行って生まれ変わることを指します。 成仏は、仏になることを指します。  もっとも極楽浄土(阿弥陀さま)に往生することが出来れば、一応そこでは、修行する環境が出来ているので、遅かれ早かれ、成仏できることは可能でしょう。ですから往生した人、亡くなった人は一応、成仏したことになります。  三密は口には仏さまの真言を唱える、そして自ら心に仏さまの姿を思い浮かべることです。 こういう行を重ねることによって、仏さまと自分自身が重なり合っていきます。 自分が仏さまと一致していきます。  これを専門用語では、入我我入(にゅうががにゅう)と言います。 私が仏に入る、または仏が私に入る、といった境地に入ることが密教の考え方なのです。  なかなか三つそろえると言うことは難しいと言う人もいます。 密教とは、秘密にしていることが多いので、徳を積んだお坊さんでなければ教えないと言う部分があります。 そのため、一般の信徒(在家)の人は踏み込めない部分もあります。 全ての人々が、その三密の行は難しいと思いがちです。  しかし、十善戒を学ぶことによってその十善戒を自ら行うことによって、そのままの三密行になっていきます。 生き物を殺さない、人の物は盗まない、そういうことごとく当たり前のことを自分の戒めとして生きていこうと、多くの人々を生かしていきましょう。全てのものを大切ににして行こうと心掛ける十善戒はたくさんあります。全部やり遂げるには大変だろうと言う方もいます。  ですが、実際は十善戒の一つでも守っていこうと努力すれば、十善戒に近づけるという考え方もあります。 更に話を進めると宇宙全体の全てのものを、私有物または私の子供だと考えようとすると、生きとし生けるものに慈悲の気持ちを注ぐことが出来るでしょう。

ひとつを極める

 水子供養希望の方々と仏教の教えについて学んでおります。 考えるならば、不殺生戒を守ると言うこと、ものを自然に大切にして生かしていこうとする心が芽生えてきますから、それはそのまま不偸盗(ふちゅうとう)戒に繋がります。又そうやって全てのものが自分と同じなのだ、あるがまま自然体が一番良い、それが楽しくなってくる、それが不綺語(ふきご)戒となります。  又そうやって見えるものに全て怒りが無くなる、自分と一緒、ありのまま認める言葉遣いも、ありのまま話すと、そこに嘘はありませんから、不妄語(ふもうご)戒が成立します。 子供達も仲良くしていると、親にとっても望ましいことですが、仲良くしている人たちの中を裂こうとは思わなくなります。 そのことで、悪口も言いませんから、これが不両舌(ふりょうぜつ)戒が成立していきます。  この宇宙全体が自分の物または自分の子供だと考えていきますと、その中にあるものはみな平等です。 貪りの気持ちがなくなることで不慳貪(ふけんどん)戒が成立します。 そして怒りの気持ちはなくなっていきますから不悪口(ふあっく)戒が成立するのです。  この肉体も維持されている内に成仏出来るのが一番望ましいわけですが、時間がかかって、場合によっては来世に持ち越される場合もあるかも知れません。ただそういった中に救いとが用意されているはずなのです。 三密という、時に特に我々真言宗で優れているのは、この三密を備えているところなのです。  成田山というのは真言宗の中でも智山派に属しています。 この派は興教大師(こうぎょうだいし)という覚鑁(かくばん)上人が、開かれたと聞いております。 この覚鑁上人は真言宗の三密の考えの中に浄土教的な発想を取り込んできた方なのです。 そして三密の中のどれか一つだけでも一生懸命極めて行けば、自然に三密がそろって成仏すると主張されています。  だいたいは宗派は自分の宗派が一番良いと思っている訳です。 そしてややもすると、やみくもに、自分だけが正しいと思うが故に、他人を退け、外の人が言ったことを全部否定しようと、そんな方向に走ってしまう人もいます。本来この密教の考え方というものは、入りきれないものを省くのでも、弾き飛ばすのでもなく、全てのものを包み込む、中に取り込むという考え方なのです。  ですから、もしほかのの宗派はつまらない、とか、そんなことを信じてもしょうがない、とかほかの宗派や宗教の事を悪く言う真言宗の僧侶がいましたら、弘法大師のお教えさえ、見失っているとなりかねません。初心を忘れているかもしれません。そういったことではなく、とにかく、十善戒の中の一つだけでも極めようと、そういう気持ちを持っていただけると嬉しいです。 水子の供養希望の方はご一緒にご唱和ください  •発菩提心真言(ほつぼだいしんしんごん) 『おん ぼうちしった ぼだはだやみ』  •三昧耶戒真言(さんまやかいしんごん) 『おん さんまやさとばん』  上記のお経は、発菩提心真言と三昧耶戒真言と申します。  さて、次に発菩提心真言(ほつぼだいしんしんごん)の意味です。 菩提を弔う、菩提寺とかよく聞きますね。 そしてお盆などになれば菩提寺に行く人もいるのではないでしょうか。 菩提を弔うとは亡き方が涅槃に向かうように生きている私達が供養させていただくことです。 また菩提寺は、そのことから、先祖代々のお墓のある寺をそのように呼びます。  発菩提心(ほつぼだいしん)とは、菩提を求める心を発(おこ)すことです。 略して発心(ほっしん)ともいい、悟りや智慧の獲得をめざして菩薩道を歩むことそのものを言います。 修行を始めること、衆生が成仏を願う心のことです。 悟りを得るための条件として、第一に発菩提心があげられています。  また、真言とは、真実の言葉と言うのです。 梵語ではマントラと言いますが、これは仏教だけのものではありません。 古代インドでもずっと使っていた物です。 現在でもヒンドゥー教も使っていますし、いろいろ意味があります。 密教の中に取り込まれていまして、この真言というものは仏様の言葉である仏さまの悟りというものになり、真言になるのです。  真言の意味を、私達が理解出来ないのは私達が悟っていないから理解できないのです。 だから、私達も、悟れば仏の言葉である真言が理解できることになるのです。 梵字にはいろいろな意味があります。 最初に「オン(om)」と言う梵字が出てきます。このオンと言う字は読み方としては擬音です。 良く「オーム」と言う場合があります。 テレビやマスコミなどで騒がれた宗教団体がありますが、この「オウム」と「オーム」は同じなのです。

納得することが悟り

 水子供養の方々と仏教の教えを読み解いております。 「オーム」と言うのは、古代インドから使われています。 いわば、神聖句といった尊い言葉なのです。  特に意味はないらしいのですが、祈りの言葉、神さまにささげる祈りの時にその巻頭詞として使われる言葉です。 この意味を水子供養を希望される方々と読み解いてみたいと思います。 いろいろ真言の頭に「オン」と言う字がついています。 あえてこの意味を解いていくと、5つあります。 1.苦行。 これは前に三帰依の所ででてきました帰依と同じ意味です。 真心を持って全身全霊で仏さま、そして尊いものを信ずる、そういう意味です。  2.供養。 「オン」と言う言葉を唱える事によって、神さま、仏さまを供養する事になるという意味があるのだそうです。 他仏は外にいるたくさんの仏さま、自仏は宇宙の悟りそのもの、自分の心の中にいる仏さまをさしています。 自仏というのは、後に、発菩提心に繋がっていきます。  3.正覚。 私達の心の中に眠っている発菩提心というものをゆり起こします。  4.承伏。 真言を唱える事によって、龍や鬼など魔族が全部集まって平伏します。 魔族でも配下に入れてしまうほど強い力を持っているということなのです。 さんぎんと言われています。 聞き慣れない言葉だと思います。  5.さんぎん、仏さまには3つの種類があると言われています。 (1)発心といいます。 これは宇宙全体に満ち満ちている仏さま、仏さまの悟りそのものを表しています。  (2)法身といいます。 長い間、菩薩として修行していることをいいます。  (3)応化身といいます。 この世において、現実に迷っている、苦しんでいる人々を救うために仏さまが人間の肉体を持って働く姿で現れます。 今からインドに2500年前に出現したお釈迦さまのことです。 けれども、お釈迦さまの悟りそのものは、発心です。   例えば、梵字を解釈する時に、この音をとってバラバラに分解してしまう事があります。 たとえば「オン」と言う字「あa」、「うu」、「まm」と書きます。 経典の中で、「守護国界主陀羅尼経」というお経があるのですが、そこでは「あa」は法身、「うu」は報身、「まm」は応身を象徴しておいるとされています。そして、すべての仏たちはこの「オン」を観想する事によって成仏すると説かれています。 古代の言語学は無理やりこじつけてる場合もあります。 「オン」と言う字は神聖な聖音の言葉なのです。  発菩提心と言う言葉には2つの意味があります。 1.悟りの心を開こうとする心を表しています。  2.私達の心そのものが悟りであり自分自身の心を知ることを表しています。  水子供養を考えているみなさん、私達の心というものは掴み所が無いものです。 そして目に見えるものでもありません。  仏教では私達の本体は空であり周りの状態、環境によって演技しているに過ぎず様々な状態によって様々感じてはいるけれど、それにはいろいろな原因とか条件とか絡み合った上で、それを我々心は、把握しているに過ぎないということなのです。ですから目に見える物のように、がっしりと掴むことはできません。そして空というものは心であって実体が無いものなのです。ですから、納得することが悟りなのだという訳です。  私達には悟りを開くという気持ちは既に備わっています。気持ちそのものが悟りではないか、これが特に密教においては発菩提心というものを大変重要なテーマとして取り上げたひとつの意味なのです。

悟りは内にあり

水子供養の方はご一緒にご唱和ください  •発菩提心真言 『おん ぼうちしった ぼだはだやみ』  •三昧耶戒真言 『おん さんまやさとばん』  ありがとうございました。 いま、お唱えいただきましたお経は、発菩提心真言と三昧耶戒真言と申します。 発菩提心真言は、「おん ぼうちしった ぼだはだやみ」と唱えています。 これは、仏様の智慧である菩提をめざす真言です。 意味は「オーン 私は菩提心をおこします」ということです。  発菩提心真言とは何なのでしょうか。 1つは、悟りを求めるこころのことです。 1つは、密教の場合は悟りそのものを指します。 それはすなわち、私達のこころそのものなのです。  実はこの二つは分かれておりますが1つの内容を表裏返しただけです。 悟りは外に求めるものではありません。 本来は私達の中に生まれながらにして悟りを掘り起こしてゆくことなのです。 それが大切なことなのです。  「人間の身口意」と「仏様の身口意」の三つの働きを一致させることなのです。 本来、仏さまの悟りは平等だと知られています。 それを三味耶戒と言います。 意味はその境地に完全完璧に入ることです。  三味耶戒真言は、「おん さんまや さとばん」と唱えています。 これは、仏さまと生きとし生ける衆生と自分の心が1つであることを誓う真言です。 意味は「オーン 汝は三味耶なり」です。  そういうことを誓うのが三味耶戒といいます。 発心に相当するとありますが、これは、発菩提心真言と表裏一体なのです。 悟りを開こうとする気持ち、こころが、そこでもう悟りが成就されているということなのです。 その人はもう悟りの世界に入っているのだということです。 本来、私達たちは「悟り」ではすべて平等であるはずなのに生まれてから積んで着た煩悩とというゆがんだ気持ちなどがあります。  そのため、私達は本来の悟りというものを忘れています。 それが人間の姿であります。  あるがままのものを見ていくことで、本当の悟りが身についていきます。 ところが、私たちは悟りとは自分から遠くはなれて別のものだと考えてしまっています。 いたずらにそればかり追い求めて自分の心というものを深く見つめなおすということが出来なくなっているのです。  水子供養の方だけでなく、皆さんがそうではないでしょうか。欲望に追われて、あれも欲しい、これも欲しいと、まわりばかり見ています。 人間が、いろんな苦しみにあうのはそこのところにあるということに気が付いていないのです。 「仏法は遥かにあらず。」と言います。 「しんじえにしてすなわちちかし。 しんぎようそとにあらず。みをすてていずこにかもとめん。 めいごわれにあればすなわちほっしんすればすなわちいたる。 めいあんほかにあらずればしんじゅすればたちまちにしょうす。」 仏法や仏さまの教えは遠いところにあるのではなく私たちのそばにあるのだと言うことです。 迷いも悟りも自分自身にあるのです。 そう言った事を信じて仏様の教えを信じ修行すればたちまち悟りを開く事が出来る、と弘法大師空海が般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)という書物に書かれています。  これが出来れば私達の肉体は、そのまま大日如来この身このまま仏さまになる即身成仏になります。 我々こそ仏である、そして、すべての人々を救おうと転換してゆくのです。  発菩提心真言心と言うのは成仏を目指す心であり悟りを求める心でなのです。 発菩提心真言心と言うのはすべての仏様の種なんだ、ということがお経の中に出てきます。 ですから、発菩提心真言心真言を唱えると言う事は、私達が悟りをひらくということの確認なのです。 自分自身と悟りは本来一緒にあるという事を確認していくなのです。 けれど私達の中に入っている悟りは、いわばダイヤモンドの原石みたいなものなのです。 磨けばダイヤモンド。 磨かなければ石ころです。 磨かないと光らないのです。 磨けばダイヤモンドになるのに、その可能性に気が付いてない、見逃しているのです。  それを磨く為に、毎回、毎回、悟りを起こそうとすること。 悟りを求めようとする気持ちを持つこと。 それを毎日唱えていくと自分自身を勇気づける、と言う意味があります。  ダイヤモンドの原石は普通の人が見てもわからないと言います。 だけれども、専門家が見ればそれはダイヤモンドだと分かるといいます。 専門家が見ればその素質を見抜くことができます。 でも、私達は分かりません。 私達は、カットして、磨いていって初めてあのキラキラ光るダイヤモンドになってからはじめて、ああこればダイヤモンドであったんだなと分かるのです。

弘法大師空海の教え

 水子供養の方々とご一緒に仏教の弘法大師空海の教えを読み解いてきております。 ダイヤモンドの原石と言っても、石ころで終わるか、ダイヤモンドになるかに分かれるわけです。 つまり、石ころもダイヤモンドなるうるのです。 弘法大師空海の教えにより悟りへと変わっていくことができるわけです。 それは、やはり大事にしていかなければいけないことです。  ややもすると私達は悟りを起こそうとする気持ちがくじけそうになる事があります。 くじけない為にも三味耶戒真言を唱えるのです。 三味耶戒の根本にあるのは発菩提心を捨てないことです。 弘法大師空海の教えにより悟りを持つ気持ちを捨てないことです。 そのたびに、唱える三味耶戒真言と言うものを普段の生活の中に実践していこうということが、十善戒なのです。十善戒が先に来て、発菩提心真言、三味耶戒真言と、密接にからみ合っているのです。  今迄仏前勤行式はそれぞれ別々に説明してきました。 しかし弘法大師空海の教えの目的は一つです。 悟りをひらくと言う事です。 ですから、水子の供養を希望される方だけでなく、全ての方に毎日唱えていただきたいのです。 たとえ毎日でなくても何かの後にでも唱えていけたらいいと思います。 皆様が少しでも弘法大師空海の教えによって仏様に近づけていけたら良いと思います。  外国にもいろいろな宗教があります。 そして各々お経があります。最終的な目的は1つでしが、いろいろな宗派で行う場合はお経や作法が違うのです。 そして、それぞれ自分の宗教や宗派が一番偉いのだと言っています。  弘法大師空海が書いている「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」正確には「秘密曼陀羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)といいますが、それには次のようにあります。「十住心論」というのは簡単に言うと、一種の教本なのです。  弘法大師空海は平安時代の初期の人です。 その時代にあった、例えば教えに高低をつけるとすれば・・・低い教えから最高の教えまでいろいろ勉強して分類して並べたものです。 もちろん弘法大師空海は真言宗の開祖ですから真言宗が一番上にきています。  弘法大師空海は日本で偉大な人物として知られています。 でも、だからこそ、その自分自身が良いのではない、周りの人を切り捨てるのではない、宗派を超えてすべてのものを取り込んでいく、そのようなものの考え方、見方であるとしました。それの比較が弘法大師空海の教え「十住心論」にあります。人間の心を十段階に分けていきます。  1.異生羝羊心  2.愚童持斎心  3.嬰童無畏心  4.唯蘊無我心  5.抜業因種心  6.他縁大乗心  7.覚心不生心  8.一道無為心  9.極無自性心  10.秘密荘厳心  そして、それぞれに当時の代表的な思想を配置することによって弘法大師空海は体系としています。  弘法大師空海の教えにある異生羝羊心とはなにでしょうか。 例えば地獄があります。 次に、三悪道(三悪趣あるいは三悪、三途)といいます。 これは、地獄、餓鬼、畜生のことです。

秘密荘厳心

 真言密教の境地、秘密荘厳心の前に水子供養の方々と3つの道について学んでいきたいと思います。  •地獄道  地獄道は罪を償わせるための世界なのです。 いわば刑務所のようなものです。 みなさんが想像しているような現在の刑務所よりひどいです。 人間が死んだあと、三途の川を渡ります。 七日ごとに閻魔様やほかの王様らの裁きを受けます。 そして、最も罪の重い人が地獄に落とされてしまうのです。 地獄にはその罪の重さによって服役のような世界が決まっています。 焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあります。 そして、やっと罪が償った、終わったなあと思ったことろに輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わらせられ、また人間として修行させられるのです。 この地獄は水子供養をご希望の方、一般の方もよくご存知だと思います。  •餓鬼道  餓鬼道は餓鬼の世界です。 よく、貧しい国の子供達が、ご飯を食べられずお腹が膨れた状態でいるのをニュースなどでみたことがありませんか。 餓鬼とはそのような姿をしているといわれます。 腹が膨れた姿で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい食べたくても食べられないのです。 そして、餓えと渇きにずっと悩まされます。 これはほかの人の事を思いやらなかったり他人にそのような処遇をしたことからおこるのです。 この餓鬼道を慮おもんばからなかったために餓鬼になった例があります。 旧暦7月15日に行われる施餓鬼会は、この餓鬼を救うために行われる法要なのです。  •畜生道  畜生道は牛馬など畜生すなわち動物の世界です。 動物は可愛いものです。 しかしここで、これは、どのようなことを意味しているかというと、ほとんど本能ばかりで生きていて、食・淫・眠の情のみが強情で、なおかつ、使われるだけであることを表しています。つまり、自分自身で仏の教えを得ることの出来ない状態を表しているのです。  地獄道は、生きてる時に悪い行いを沢山してるとおとされる世界です。 畜生道は、おろかな人、生きてる時に正しい教えを学ばなかったとか、いろんな動物をいじめたりした人が落とされる世界です。 そして、今度は動物に生まれ変わっていじめられ、食べられてしまいます。 餓鬼道は、怒りの激しい人、生きてる時に物惜しみしたりした人が落とされる世界です。 飢えと乾きに苦しめられ、むさぼりの激しい人、ほしいままの生活をしているとそのようになってしまいます。 そのように、煩悩にまみれた心を「十住心論」では異生羝羊心(いしょうていようしん)としました。  次に愚童持斎心(ぐどうじさいしん)があります。 これは人間的な道徳心がめざめた状態を表しています。 何もわからない子供でも、人に食べ物を分けてあげようとする心の状態のことを表します。 道徳や儒教などの境地をめざめた状態をいいます。  次に嬰童無畏心(ぐどうむいしん)があります。 これは幼い子供が母親の胸に抱かれて恐怖からのがれて恐れから離れている状態を表しています。 極楽は楽しいと字が入りますが、おもしろおかしく過ごせるというのではなく、あくまでも仏さまになる修行の場所だということを表しています。インド哲学や老荘思想の境地にめざめた状態をいいます。  次に唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)があります。 ここから仏教の教へと入ります。 苦しみの世界をのがれて、解脱の世界に安住しようとする気持ちが起きた状態を表しています。 いわゆる小乗仏教でいうところの声聞の境地にめざめた状態をいいます。 お釈迦さまの弟子達で、お釈迦さまの声を聞いて悟る人たちのことをいいます。  次に抜業因種心(ばつごういんじゅしん)があります。 世の中というのは縁によって成り立っています。 そこから涅槃に入ることを表しています。 苦しんでいる人達を救うまではいっていないで、自分自身だけの事にとどまっている状態です。 いわゆる小乗仏教でいうところの縁覚の境にめざめた状態をいいます。  次に他縁大乗心(たえんだいじょうしん)があります。 大乗仏教に入りました。 これはすべて心によって起きたものである、ということにめざめた状態をいいます。 大乗仏教のうち唯識(ゆいしき)、法相の境地をいいます。  次に覚心不生心(かくしんふしょうしん)があります。 インド仏教でいうところのいわゆる空という教え、というのものです。 悟る境地を開くことにめざめた状態をいいます。 哲学的教えで民衆を救うと云うより程度が低いと見られています。 大乗仏教のうち中観、三論の境地をいいます。  次に一道無為心(いちどうむいしん)があります。 必ず般若心経の時に出てきます境地をあらわしています。 大乗仏教のうち天台の境を表しています。  次に極無自性心(ごくむじしょうしん)があります。 分け隔てなく存在することを表しています。 大乗仏教のうち華厳の境地を表しています。  次に秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)があります。 これは真言密教のことです。 なぜこれが一番上にくるかと云うと、華厳宗の教えは哲学としては深まっています。 しかし、行動哲学が成り立っていないということなのです。 あくまでも頭の中でやるが、実際に人々を救うのは真言宗だというものの考え方からきています。 ですから、 真言密教の境地、秘密荘厳心が1番上にくるのです。  お不動さん、護摩などの供養法として実際に行動して実践しているから、秘密荘厳心は尊いと弘法大師空海は説いたのです。 低い教えから高い教え秘密荘厳心まで導いていくのが密教だと説いたのです。  まとめとして4つの事を覚えてください。 そして、心にとめておいてください。  1.秘密荘厳心-発菩提心はつぼだいしん真言=悟りを求める心あり、悟りそのもの  2.秘密荘厳心-発菩提心=自分自身の中の悟りの心を確認して強めていくもの  3.秘密荘厳心-三味耶戒さんまやかい真言=発菩提心を完成させるため、捨てないと念じるもの  4.秘密荘厳心-悟り=私達の心の中に眠っているダイヤモンドの原石を、一緒にみがいていくもの

功徳とは

水子供養をご希望の方はご一緒にお唱え下さい。 •普廻向 『願似此功徳(がんにしくどく) 普及於一切(ふぎゅうおいっさい) 我等與皆共(がとうよしゅじょう) 皆共成仏道(かいぐじょうぶつどう)』  「願わくはこの功徳を以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に佛道を成ぜんことを」  いま、お唱えいただきましたお経は、普廻向と申します。  これはもともと、普廻向の文と呼ばれまして、妙法蓮華経と云うお経、つまり法華経です。 これの意味ですが、そのまま訳しますと、こい願わくば私達の積んだこの功徳が、あらゆる人々にゆきわたり、私達と、人々とがそろって佛道を完成出来ますように一生懸命祈ります、そのような意味になります。  この中で注意すべき言葉が、まずこの功徳です。 功徳とは何でしょうか。 功徳と云うのは、善行をすることによって、その人に備わった徳、良い行いをする事によって身に備わった徳、優れた結果を招く能力のこと、これを功徳といいます。  私達が普段の生活において道徳的に正しく倫理的に良いとされる行い功徳を積み功徳を一切に及ぼすことを廻向といいます。 善行で自分が納めた功徳を外にめぐらし差し向けることです。 仏教では廻向には2つの意味があります。  仏教学者(京都大学)の梶山雄一先生が現代新書に書かれた本があります。 それによると廻向は転換の思想で、あるものを別のものに転換してしまうことです。 1つは方向転換、もう1つは内容転換の廻向です。  水子の供養の後の廻向料もここからきているのです。 方向転換は、自分で積んだ功徳、これを自分で受けるのではなく外の人に振り向けることです。 本来は自分に受けるものですが、外の人に差し上げることです。  内容転換の方は、いずれにしてもその功徳を受けるのは自分になります。 この場合、この世で行った善行というのは幸福あるいは長寿というかたちで返ってきます。  将来自分が功徳を積んだ事によって悟りを得ます。 仏になって成仏する、そういう方向に持っていきます。 本来仏教というのは、自分でまいた種は自分で刈らなければなりません。 つまり、自業自得であるということです。 自分の行いを自分で刈る。これを人に分けてはいけません。 悪行は、自分で刈りなさい、ということです。 善行は、人に分けてあげることが出来ます。  大乗仏教のかたちは、単に仏になるための仏教でなく同時に仏を信仰することです。 仏教としての部分が非常に大きくなってきています。 仏さまを信じる事によって仏さまが救ってくれます。 そのような考え方が出来てきます。  これが廻向と結びついた考え方なのです。 廻向という考え方お御釈迦さまの時代からも善行は全くなかったかと云うとそうではないのです。 慈悲と云う考え方、1番そこにあります。 全て仏の慈悲によって説明出来る衆生救済、生きとし生けるもの、救っていく、悟りに導いていく、仏教のそこにいきついているのです。  仏教の考えで佛道修行者の中に縁覚とい云うグループがあります。 あるいは、独覚と云います。 十二縁起宇宙の法則は、縁起によって成り立っていると、悟りを開く人々自分の力で悟りを開く人、自分だけの悟りであって外の人を導いていかないと云う事で、如来ブッタとは区別されます。  如来ブッタは、悟りを開いているが、多くの人々を救おうという気持ちがあります。 悟りにいたっていない修行中の人を菩薩といいます。 釈迦はあくまでも如来です。  ここで一つ面白い物語があります。 梵天勧請と云う仏教のお経の中に出てきます。 実はお釈迦さまには和尚様や先生といったいわゆる師匠がいたわけではなく、自分の力で悟りを開いたのです。 導きがなく自分の力で悟りを開いたいのです。  釈迦は29歳で出家され6年間苦行されました。 自分の体を苦しめ苦しめ、その結果悟りが得られるのではないかと考えましたが、ついに苦行だけでは悟りは得られないと考え、今度は川の辺の菩提樹の下で21日間瞑想に入りました。ついに最後の日に明星の輝くのを見て悟りを開いたのです。  ところが、悟りを開いた釈迦が、ちょっとあることに悩まれたのです。 それは自分が悟った内容は深くて一般の人々には理解できないのいではないかと、私はこのまんま真直ぐ涅槃に入って消滅した方が良いのではないかと、考えられたのです。その時に釈迦の心を察した梵天というインドの最高の神さまが釈迦の前に表われて、世の中には愚劣な人間も多いけれど中には一生懸命、道を探して心のレベルもかなり上達している者もいるはずだから、そう者ならばきっと、お釈迦さまの教えを聞いて悟る事が出来るはずだから、そういう者達に教えを解いてあげて下さい。  あなたが涅槃に入ってしまったら、この世の中に正しい教えは伝わらないと。 それで釈迦はもう一度深い瞑想をしてみると、確かに世の中にはいろんな人がいます。 池の中の蓮華のように水の中で沈んだまま花を咲かせる者もあれば水面に出て花を咲かせるものもあります。  人間だって完全に迷いの中、泥の中で何が何だか分からない人もいるが、ある程度道徳的な考え方も出来て道をおさめようとする人もいます。そして高いレベルまで修行を積んでいってすぐに釈迦の教えを理解できる者もいます。ですからお釈迦さまは、多くの人々に真理を解いて行こうと決心しました。  実際に梵天さまがあらわれたかは、お釈迦さまの時代の人でその場にいた人に聞いてみなければわかりません。 それこそ梵天さまに聞かなければわかりません。 釈迦の迷う心の葛藤を梵天勧請の物語にして、託して後世に伝えているのではないかといわれています。 そのようにして、釈迦は、説法に踏み切られているわけです。  衆生は救わなければいけないと、そのような考えにもとづいて釈迦は前へ前へ歩き初めたのです。 そして特に大乗仏教の実践者であります。 この菩薩は慈悲を根底においています。  いろんな方法もあるのですが、この菩薩たちというのは、自分の悟りはさておいて、とにかく衆生である私達を救おうということです。 地蔵菩薩などは、その中の最たるものではないでしょうか。 行きとし生けるもの全ての人々を救うまでは自分は如来にならないとあります。  悟りを開かないと、この世にとどまって苦しんでいる人々を救い続ける、そういう活動をしている菩薩もあるということなのです。 そういった意味でも、この慈悲を納める廻向というものを非常に重要視されています。  ところが、逆説的な部分もあるのです。 実は悟りを求める心を捨てて人々を救うのだということです。 自分を捨てて、私が無い気持ちにおいて、全ての人々を救うのだという逆説の意味もあります。

仏の御加護と救い

 水子供養の方々と仏教の教えを読み解いております 四摂法という修行の項目があります。 対人関係についての仏教的なものの考え方のことです。 多くの人々を暖かく受け入れることです。  それは、まさに仏や菩薩が衆生である私達を導くための手段や方法です。 そして苦しんでいる衆生である私達を救済しようと心血を注いで導く4つの方法なのです。 それを四摂法といいます。 ではその4つは具体的に何を指すのでしょうか。  1.布施=他の人に自分の持っているものを与えるということです。  2.愛護=親しみの思いやりの言葉を持って人々に語りかけることです。  3.利行=これは相手にとって、利益となるような行いをすることです。  4.同事=これは相手の立場にたって、協力する人が正しい行いをするときに協力することです。  これらが四摂法です。  また、そのうちの布施には種類があります。 主に3つに分けることができます。  1.財施=物賃、お金、洋服等、自分の持っているもの、持ち物などの自分の財産を施すことです。水子の供養、墓参りにお供えをするのはこの為です。  2.法施=人々に対して仏を説いていくことです。  3.無畏施=精神的に悩んでいる人々や苦しんでいる人、そして人の恐れを解いてあげる修行です。  これらが布施の内容です。  これらは、お釈迦さまの時代から解かれているといわれています。 四摂法と多少言葉が似ているのですが四無量心があります。 四摂法と同様に四無量心にも4つの内容があります。  計りしれない4つの心、自他の心を身に付けなさいということです。 それを四無量心といいます。 では、その四無量心とはなにを指すのでしょうか。  1.慈無量心=全ての人々の心を安らかに、楽しく身に付けると云うことです。  2.非無量心=苦しみを和らげる。人々の苦しみや悩みを取り去るということです。  3.喜無量心=害を与えない。嫉まずに喜ぶ、外の人々の幸福を喜んであげることです。  4.捨無量心=平等に利益する。人間は、良いことをしてやると、すると、そこにいろいろはからないが出てくるのです。 交互の感情。好きな人には良くしてあげようとしますが、誰であっても同じ気持ちで接しなさいということです。  人の関わりによって、このような修行によって、どのような効果があらわれるかということです。 自分の中から貪欲が消え嫉妬が押さえられていくのです。 これも人々との関わりで自分の心とどう関わっていくかということです。  六波羅密というものがあります。  •自戒=戒律を守る。我慢という言葉は仏教語ではちがいます。今では忍耐、恥しめを耐えるおごり高ぶった心ということです。  •精進=努力、現代的な事とは違い、怠けない、ゆとりを持ちながら確実にこなしてゆくということです。  •禅定波羅密=常に心を落ち着けようということです。  •般若波羅密=知恵(知識)学歴の高い人が偉いと思われがちですが、だけれども悪いことばかりしている人もいます。  パッとした学校をでていなくとも人望が厚く、一生懸命仕事し、周りの人にも優しく接っすることができる人もいます。 学歴の有る無しではなく、全てのものをありのままの姿、仏さまの知恵を悟る事が、般若と云うのです。 頭で分かるのではなく、体で分かるのです。そのことを言います。  廻向とは布施することです。水子供養の廻向料はここから来ております 漫然とするだけでは波羅密にはなりません。 布施することによって、得られた功徳を廻向するのです。 自分が悟ることによって完成するのです。 仏さまの悟りを得ようとする気持ち、振り向けることによって、菩提を成就すると云う事を常に頭においておくのです。  また波羅密も4つあります。 華厳思想から出たもので、智波羅密を皆得することです。  1.力波羅密  2.方便波羅密  3.願波羅密  4.智波羅密  仏教は人々を救わなければならないのです。 そして、少しでも仏さまに御加護をいただいて人々に救いの手を差し述べなければいけないのです。 なかなか前向きにというのは難しいことです。  現代はさまざまな情報が流れており、楽しいこと、面白いことなどが沢山あります。 しかし、それに惑わされることなく自分をしっかり見つめる事が特に重要な時代です。  そして、功徳を積んで悟りを開き本当の幸福を手に入れていくのです。  神社仏閣にお参りしてる人もいます。 何かしてあげたという態度の人もおります。そういった人が大半です。 しかし、自慢高慢な態度、素直でない心そういうものがあります。 それをしてしまうと、せっかく積んだ功徳が全部帳消しになってしまいます。 せっかく100の良いことをしたとしても1の悪い事ですべで御破算になってしまうのです。 振り返ってみれば人間関係・対人関係でもそうではないでしょうか。 結局、それは、せっかく、執着を捨て功徳をしているのに全部自分だけに振り向けてしまっていることなのです。 簡単にいうと自己中心的ということです。 自分のことしか考えていない、損得勘定しかしないそういうことです。  他の人、回りの人々に分けてあげようとする気持が大事で、そこから始まるのです。 そして、自分自身の功徳として輝いてくるのです。 積んだ功徳は原石にすぎないのです。  その功徳を磨いてゆくには、周りの人々に振り向けてゆく、こういった事を仏の教えを学び念じていきながらこの「普廻向」の「願わくはこの功徳を以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に佛道を成ぜんことを。」を唱えていただきますと尚よろしいかと思います。

不動明王の御真言

 水子供養をご希望の方はご一緒にお唱えください  •不動妙王ご真言 「なまくさ まんだ ばさらなん せんだ まかろしゃな そわたや うんたらたかんまん」  いま、お唱えいただきましたお経は、不動明王のご真言になります。  みなさまが、お唱えした不動明王のご真言について説明します。 水子供養を希望さる方でご存知の方も多いかもしれませんが、成田山といえば不動明王です。 本尊不動明王は多くの方々に御利益を分かち与えてくださいます。 不動明王の御真言を唱えることは不動明王に帰依することです。  いわゆる真言と云うのは、仏さまの悟りの内容を表した言葉です。 梵字で書かれております。 その一文字、一文字において、大変沢山の意味が含まれて、人間の言葉に翻訳するのは難しいのです。 ですから一般に翻訳しないのが建前になっています。  成田山にも色々な仏さまがいらっしゃいます。 またよく参拝されるかたもあるかもしれませんが、ほかにも御釈迦さま、阿弥陀さま、大日如来さま、お地蔵さま、文殊菩薩さま、お薬師さま、観音さま、普賢菩薩さま、不動明王などたくさんの仏さまがおられます。これらの仏さまには、それぞれに御真言を持っておられます。  仏さまではないですが、仏さまの教え、仏教を守る役割をしている神さまのような諸尊がいます。  •梵天  •帝釈天  •四天王  •増長天  •広目天  •多聞天  など沢山おられますが、この諸尊も御真言を持っておられます。  では、不動明王の御真言についてはどうでしょうか。 不動明王についての御真言はいくつかの言葉が集まって一つの御真言になっています。 御真言は一つの言葉ではないのです。 いくつもの言葉の集まりです。 その中でも特に一般に使っている、慈救咒(じくしゅ)について考えてみましょう。 •読唱 「なまくさ まんだ ばさらなん せんだ まかろしゃな そわたや うんたらたかんまん」  •意味 「激しい大いなる怒りの相すがたを示される不動明王よ。迷いを打ち砕きたまえ。障りを除きたまえ。所願を成就せしめたまえ。カン マン。」  チベットでは、不動明王は、2体奉られています。 一つは、アチャラナータ=動かざるもの、尊敬するものという意味があります。 一つは、チャンダマハーローシャ=不動明王の意味です。 日本ほど、不動明王信仰は盛んではありません。  水子供養を何度かされている方はご存知かもしれませんが成田山で護摩を焚いてお札を頂くときにお札の上に文字が入っています。 カンマンがついているのです。 カンというのは、虚空の中を自由自在に歩き回れる事が出来るということなのです。 つまり、不動明王が宇宙全体に満ちていると表しているのです。  密教の根本尊は大日如来です。 不動明王は、その大日如来の化身、あるいはその内証を表したものです。 「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王だいにちだいしょうふどうみょうおうとも言われる由縁です。  そして、その大日如来を取り巻く四体の仏さまがいます。  1.阿しゅく如来です。 梵語でアクショービヤといい、阿しゅく仏ともいいます。 阿しゅく如来は印を結んでいます。それは、右手を手の甲を外側に向けて下げ、指先で地に触れる触地印(そくちいん)を結んでいます。これは、お釈迦さまが悟りを求めて修行中に魔の誘惑を受けましたが、これを退けたという伝説に由来するものであり煩悩に屈しないという堅固な決心を表しているのです。  2.宝生如来です。 梵名でラトナ・サンバヴァといいます。 宝生如来は同じく印を結んでいます。左手は腹前で衣を掴み、右手は手の平を前に向けて下げる「与願印(よがんいん)」を結んでいます。これは、仏の悟りの境地のひとつ「平等性智びょうどうしょうち」を表したものです。私達もふくめて、全ての存在には絶対の価値があるということを表しているのです。  3.阿弥陀如来です。 梵名でアミターバといいます。 阿弥陀如来も同じく印を結んでいます。 定印・説法印・施無畏印・与願印を組み合わせた九品来迎印を結ぶ姿で表されることが多いです。  4.不空成就如来です。 梵名でアモーガシッデイといいます。 不空成就如来も同じく印を結んでいます。 左手は腹前で衣を掴み、右手は胸の高さに上げて手のひらを前に向けた施無畏印(せむいいん)を結ぶんでいます。何物にもとらわれず実践していくという意味があります。また、「アモーガ」は「空しからず」という意味で、この不空成就如来がすべて成し遂げることを表しています。

真言の言葉

 水子供養を希望される方々と真言についてもう少し深く読み解いていきます。 この四体の如来が4つの仏さまが知恵をひっくるめて「カン」といいます。 「マン」はお不動さまの揺るぎ無い菩提心です、どこまでも悟りを追求していく気持ちです。 「ア」という字は胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)での大日如来の種字を表しています。 ちなみには金剛界曼荼羅ではバンと言います。 大日如来は、宇宙の真理そのもの、空などを表して滅びないものという意味なのです。 「ノウ」背中に炎を背負っている姿ですが、炎の中に立っています。 これを火生三昧(かしょうざんまい)といいます。  全ての煩悩を断ち切るため、魔物(心の中の迷い)を断ち切る、追い払うということを表しています。 だからお不動さまは火を背負ってるように見えるのです。  それは、私達を叱り付けてでも正しい道に導こうとする表れです。 そして、お不動さまには、その役割があります。 この4文字を種字としておられるのです。  真言と云うのは、本来頭の中で考えるものではないのです。 真言の言葉を声に出して唱えることに意味があるのです。 黙読ではなくて真言を唱えることによって響きの中に宇宙の大きな力が備わるのです。  日本で言霊といいます。 言葉信仰、仏さまの説く、称える、そのもの言葉を唱えることによって仏さまの力を私達のものにしていくことが真言なのです。 実際に声に出して唱える事によって蜜の業に相当します。  仏さまと私達の唱える言葉と一致してきます。 ただ漫然と唱えるのではなく、その時に心の中にお不動さまの姿を描くことが大切です。 お不動さま以外の御真言なら、それぞれの姿を描くことが大切です。 お不動さまが見えた時に、御真言がとても大きな力になってきます。 時間がないときはお不動さまの種字であるカーン (haam)、或いはカンマーン (hmmaam)の「カン」「カンマーン」だけでも良いとされています。人間は生まれる時は「ア」で産まれて、死ぬ時は「ウン」で終わるとも言われてます。真言そのものに、宇宙すべての、強いエネルギーが込められてると言われているのはそのためです。 水子の供養のご本尊もあり、ご真言があります。それは水子供養のページで説明します。  信仰の仕方は人それぞれなのです。 全く同じ事をしなくても良いのですが、お不動さまを信仰している方は最初は、困った時の神頼みで入っていく人が多いのではないかと思います。とにかく願い事を叶えて欲しいとか、恋人と仲良くなりたいとか、つまり自分のことです。  それから深い信仰に入っていく人もいれば、願い事が終われば、それで終わってしまう人もいるでしょう。 けれども、そこからさらに突っ込んでいく人もいるのです。 お不動さまを通してご本尊さまに帰依しすること。 御縁をいただいた、奉っている寺院に奉仕活動すること。 そして、さらにお不動さまの悟りというものを自分自身で体得していくことなのです。 さらに言えば、その体得したものを、自分だけで得るのではなく、そのことを、深くしてゆき、自分以外の人にも伝えてゆくこと。 そうすると、せっかく戴いた御利益ですから、大切にしたいと思い、なおかつ不動明王と一緒に日々の生活に入っていくことが出来るのです。  不動明王の誓いは「六波羅蜜」です。  1.御本尊さまの奴僕の業に従い、全ての人々に奉仕いたします。  2.御本尊さまの堅作の長年により、尽くし合いの生活を送ります。  3.御本尊さまの磐石の決意を持ってあらゆる苦難に耐え忍びます。  4.御本尊さまの燃え盛る炎のようにひたすら精進、努力致します。  5.御本尊さまの揺るぎ無き御心に対し、精神の統一に努めます。  6.御本尊さまの利権の知恵を持って、正しく判断し、真実の自己に目覚めます。  7.御本尊さまの加持力を戴き、平等の利益に預かる事を、祈念致します。  この七つの項目があります。 七つの項目の中の1〜6迄が、六波羅蜜なのです。 不動明王のお姿は、奴僕、三昧、そして人の為に自分の力を一生懸命尽くしていく姿そのものです。 そしてそれを自分の行った事に対して、驕り高ぶったりしないで、ただひたすらに奉仕の業を行っていくのがお不動さまです。 お不動さまは青黒い顔をしていますがそれは「インドの下級の召使いの姿」と言われています。  敢えて奴隷の境地に身を落としても人々の為に働くという事を表しているのです。 お不動さまは本来、大日如来と同体なのです。 大日如来は宇宙で一番絶対の尊い仏さまなのです。  それにもかかわらず、御不動さまは奴僕三昧といわれています。 人々はみんな平等であるという元で、お不動さまは一所懸命良い方向へと導いてくださいます。 お不動さまからご利益をいただいたという気持ちが大切なのです。 そして、みなさまが他の方に何かしたときは、させていただいているという気持ちが大切なのです。 その気持ちなくしてご利益はありません。 たとえあったとしても仮のものであると後で気付かされるでしょう。

全部の利益

 水子供養を希望される方々と不動明王について、もう少し読み解いていきます。 不動明王を信心している、私たちが、全部の利益など不動明王との誓いの上でいくつか守るべき心構えがあります。 不動明王の広大無辺の慈悲に感謝し、ご本誓である全部の利益の体得につとめることを誓うのです。 1.ご本尊さまの奴僕の行にしたがい、全部の利益の実践ですべての人びとに奉仕いたします。 今生きている命すべてを大切にしよう。 自分も、他人も生きとし、生けるものすべてのものを大切に生かしていこう、ということです。  1.ご本尊さまの羂索のおさとしにより、つくし合いの生活をおくります。 不動明王は羂索は狩に使う道具をお持ちです。 そして、同じく投げ縄を持ちそれは、動物を捕えるものです。 それは、悪い事をしたり、悪い方向へ向かっていってしまった時、仏の教えに従わない人々を、例え縛り上げてでも正しい道に引き上げていこうという不動明王の現れです。不動明王はそういった仕事をされています。  1.ご本尊さまの磐石の決意をもって、あらゆる苦難に耐えしのびます。 これは忍耐です。 不動明王は、硬い石の上に座っています。 辱めに耐える忍耐、耐えていく力を養っていくことです。 この頃は、とくに物は溢れているが辛抱が薄れていきます。 感謝の気持ちが大事なことと、なんでもよく素直な気持ちを持ち、苦難を乗り切ります。  1.ご本尊さまの燃えさかる火炎のように、ひたすら全部の利益のため精進努力いたします。 火生三昧かしょうざんまいで、迷いを焼き晴らす不動明王は火の中にいます。例え自分が焼かれても人々を救っていくといわれており、そのようにいたします。  1.ご本尊さまのゆるぎなきみ心を体し、精神の統一につとめます。 精進、がむしゃらに努力じゃなくゆとりを持って、自分の出来る事から始めます。 決して動揺しないこと、静かにして波風を立てるのではなく、一日を反省して本来どうあるべきか考える、揺るぎなきは頑固という意味ではなく、心を落ち着けありのままの姿と心を見つめていきます。  1.ご本尊さまの利剣の智慧をもって、正しく判断し、真実の自己にめざめます。 邪険を振り払う刀です。 自分だけにとらわれる見方ではなく、全部の利益を大切にする正しい考えを身に付けて行く。背を追わなくても良いものまで背を追ってしまう時、仏さまの力と云うものを我々に及ぼされている。  1.ご本尊さまの加持力をいただき、平等の利益にあずかることを祈念いたします。 そして、そこから全部の利益を大切にして私達はみなさま一緒に高い境地、幸福になろう。  •加持  不動明王といえば弘法大師です。 弘法大師は「加持」を大切にしました。  そして、また、次のようにもいっています。 「ただ仏が私達に力を与えているのではなく、私達が仏の力を受け入れるということが必要なのです。」 自分だけの利益ではなく、周りの人全部の利益になるようにするのです。 そのような行いをするのです。 自分だけでなく、他の人も平等の利益を受け取るのです。 全部の利益により一人でも多くの人々が幸福になります。 そのような世の中において自分もはじめて幸福になっていくことができるということなのです。  「加持」とは、如来の大悲と衆生の信心とを表しています 「加持」は「加」と「持」から成り立っています。 仏日の影、衆生の心水に現ずるを「加」といいます。 行者の心水よく仏日を感ずるを「持」と名付けられています。  そのことから、不動明王の大慈悲が、私たちの心に働きかけてくださるのが「加」であり、私たちが、それを信心の中に受けとめることが「持」なのです。 この「加持」が成立するために、3つの力が必要であるとされています。  1.功徳力=私達の信心、仏の教えにのっとって業をなしていく。  2.如来の加持力=仏様が持っている慈悲の力。  3.法界力=宇宙と云うのは互いに支え合いながら一つの世界を作り上げていく。  成田山で御護摩をする導師は修法の間(護摩祈祷や加持祈祷が行われるところの場所を言います。一心にお経や御真言をお唱えしています) 不動明王(成田山のご本尊様です) 檀徒信徒(これはわたしたちのことです) との三つが一つにとけ合うことを常に念じて修法しているのです。 檀徒信徒の皆さまも、御護摩に参列のさいにはご一緒にご真言をお唱えし不動明王の御利益をお受けすることが大切なのです。 これは水子供養の際にもいえると思います。水子供養を行っている時には、亡き子達が安らぎのある場所へ行かれるように心からお祈り下さい。  この3つの力が、備わったときに初めて全部の利益が成り立つのです。 どれも欠けてはいけません。 私達の信心の力で、周りに良い影響を及ぼしていくことなのです。  そういったことが分かり始めると不動明王のお姿のひとつ、ひとつに意味があることが分かります。 そして、ただぼんやりと見ているより、その意味がわかると「六波羅蜜」の業を行っていることを私達に見せている、と分かることができるでしょう。このようなことを念頭におきながら全部の利益を大切に不動明王の信心を深めていくと、深く不動明王と一体になることができるのではないかと思います。

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